メッセージ: 信仰と神の約束の実現(ローマ4:13-25)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
「信仰」という言葉は、現代の社会では陳腐で古めかしい言葉のように扱われます。特に特定の宗教を信仰するという者に対しては、無用な警戒心さえ抱いてしまいがちです。
確かに「信仰」というものが、そのように見なされ扱われてしまうのには、信仰者自身のあり方が社会とは遊離してしまっているという問題があるからかもしれません。けれども、そのことのために「信じる」ということ自体が軽く扱われ、あらゆることを疑わずにはいられないとなると、希望そのものを持つことすら難しくなってしまいます。
しかし、希望がないままで生きるということは人間には耐えられないことです。そうなると信仰を軽く見なす者は、結局のところ適当な希望に妥協しながら生きていくよりほかはないのです。
さて、今回も信仰が人間の救いと希望にとってどれほど大きなものであるのか、ローマの信徒への手紙から学びたいと思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ローマの信徒への手紙 4章13節〜25節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されたことになります。実に、律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違犯もありません。従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です。「わたしはあなたを多くの民の父と定めた」と書いてあるとおりです。死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。だからまた、それが彼の義と認められたわけです。しかし、「それが彼の義と認められた」という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。
前回取り上げた個所の最後で、パウロは、アブラハムが単に割礼のある者の父、つまりユダヤ人の父となったというばかりではなく、アブラハムと同じ信仰を持つ者の父ともなった、ということを述べました。今回はそのことを受けて、アブラハムが神から受けた約束が、信仰によってこそ実現されるものであることを明らかにします。
世界を受け継がせるという約束が、もし、律法の行いによって実現するのであれば、それは当然の権利であって、信仰による約束の実現とは相いれないものです。なぜなら、律法を行えば、それには当然の報いが伴っているからです。ところが、実際には罪ある人間にとって律法は罪を罪として暴くもの以外の何ものでもなく、律法によっては罪の自覚しか生じないのです。
ですから、世界を受け継がせるという神の約束は、信仰によってしか実現できないものなのです。
その場合、アブラハムはどのような信仰によって神の約束の実現を手に入れることになったのでしょうか。それは現実には自分の子供が一人にいないにもかかわらず、また、これから新たに子供が与えられるには、あまりにも年老いた身であるにも拘わらず、ただ神の無限の力に望みを見出す信仰によってです。
この信仰には二つの方向性があります。それは人間の力が有限なものであるという確信と、言い換えれば、人間は万能ではないという謙虚な思いと、もう一つは、その人間の有限の力を超えた神の無限の力への信頼です。
多くの人にとっては、自分の力が及ばないということを認めることは、屈辱以外の何物でもありません。できないことを認めないで頑張ることこそが大切であると思われがちです。
しかし、アブラハムが抱いていた信仰は、それとはまったく異なるものでした。アブラハムにとっては、自分自身の内に希望が見い出せないからこそ、かえって神に望みを置き、神を信頼した生き方を貫いたのでした。そして、約束されていたものを、報酬としてではなく恵みとしていただくことができたのです。
ところで、このアブラハムの信仰と約束の実現は、ある意味ではアブラハム固有のものと言えるかもしれません。現実に子供がいなかったアブラハムが、約束を実現してくださる神に信頼し、そこに望みを見出して、約束通り多くの子孫を得、その子孫たちを通して世界を継ぐ者となった、というだけならば、わたしたちの信仰との関係は明白ではありません。
そこでパウロは、キリストの十字架と復活を信じるクリスチャンの信仰を、アブラハムの信仰と重ね合わせます。
子供のいない年老いたアブラハムにとって、星の数の様な多くの子孫が与えられることを信じることは、無から有を呼び出し、死者の中から人を復活させる神の力を信じるのと、等しいのです。アブラハム本人ではないわたしたちがアブラハムと同じように約束のものを受け継ぐことができるのは、キリストの復活の出来事の中に、無から有を呼びだす全能の神の力を信仰によって見出し、キリストの死の意味が、わたしたちを罪から解放するためであったと信仰によって受け入れるからにほかなりません。
くどいようですが、このような信仰自体が、賞賛に値する素晴らしい信仰なので義と認められ、救われるのではありません。自分ではどうすることもできない絶望的な患者が、有能な医者を頼って、「助けてください」といったからと言って、それを素晴らしい決断だとは誰も言わないでしょう。助かるためには医者を信じて頼るほかないのですから。しかし、自分が絶望的であることを頑として認めず、医者を頼らなければ、その患者は病から癒されることはなく、死期を早める結果になってしまうだけです。
信仰によって約束のものを手に入れるということは、神にこそ約束を実現する力があることを信じて頼ること以外の何ものでもないのです。わたし自身の内には望みがなく、神にだけ希望があるからです。
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