メッセージ: 復活の確かさ(ルカ24:36-43)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
イエス・キリストはよみがえられた、ということをキリスト教会は宣べ伝え続けています。そしてキリストの復活が何を意味しているのか、その意義についても語り続けてきました。
しかし、その一方で復活の事実そのものは聖書の記事を何度読み返してみても神秘的でわたしたちの理解を超えています。復活のキリストを目撃した当時の人々にとってさえ、復活の出来事はすぐに合点できる出来事ではなかったのですから、その出来事の様子を目撃していないわたしたちには一層理解しがたいというのは、無理もないことかもしれません。
しかし、それにもかかわらず、いえ、それだからこそキリストの復活を語り続ける聖書の御言葉にきょうも学びたいと思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 24章36節〜43節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
きょう取り上げた個所は、エルサレムで弟子たちの前に姿を現した復活のキリストの話です。
弟子たちに復活のキリストがその姿を現した、という記事は、聖書の中にそうたくさん記されているわけではありません。パウロの書いた手紙によると、十二人の弟子たちに現れ、その後五百人以上の兄弟たちに同時に現れたあります。さらにヤコブにも個別的に現れたとあります(1コリント15:3-6)。しかし、そのすべてが福音書の記事として記されているわけでもなく、また、四つの福音書すべてが、復活のキリストがその姿を弟子たちの前に現したことを記しているわけでもありません。
そう言う意味では、ルカによる福音書に記されていることは、ほんの一部の出来事を選んで記したにすぎません。
さて、前回まで取り上げていたのは、エマオ村に向かう二人の弟子の前に姿を現した復活のキリストの話でした。きょうの話の舞台は再びエルサレムに戻ります。
先週学んだ個所の終わりには、この二人の弟子たちが、日が暮れたにもかかわらず、時を移さずエルサレムに引き返した次第が記されていました。戻ってみると、シモン・ペトロにも復活のキリストが現れていたことを知り、自分たちの体験したことを他の弟子たちにも語り聞かせました。
きょうの場面はその時起こった出来事です。
復活のイエス・キリストが集まっていた弟子たちの真ん中にお立ちになり、「あなたがたに平和があるように」とおっしゃいました。
その時、キリストが何語でお話になったのかはわかりませんが、「平和がありますように、シャローム」というのはごく日常的な挨拶の言葉でした。普段と何も変わらない、いつも通りの挨拶の言葉で、キリストは弟子たちに姿を現されたのでした。
イエス・キリストにとっては、いつもと変わりのない接し方で弟子たちに挨拶を述べたのですが、挨拶を受けた弟子たちはそうではありませんでした。
彼らは復活のイエス・キリストを見て、亡霊を見ているのだと思い、恐れおののいてしまいます。
エマオから来た二人の弟子たちは、既に復活のキリストに一度会っているのですから、彼らは別だったかもしれません。しかし、そこに集まっていた弟子たちも、復活のイエス・キリストが本当に復活してシモンに現れたと言うことを語り合っていた人たちですから、エマオからの二人を含めて、ある程度はキリストの復活を信じ始めるようになった人たちであったと言ってもよいかもしれません。
けれども、その彼らでさえ、亡霊を見ているのだと思い、恐れおののいてしまうのですから、目の前で起こっている事柄は、やはり俄かには受け入れがたいほどの不思議な出来事であったということでしょう。
けれども、主イエス・キリストはそのように疑う弟子たちをご覧になって、ただ、彼らを不信仰だと非難するばかりではありません。そうではなく、復活の出来事を初めて目撃する弟子たちが、復活の信仰にとどまることができるようにと、数々の証拠をお示しになります。
その時、お示しになったのは、肉も骨もあるご自分の復活の体でした。しかも、それでもまだ不思議がる弟子たちに、ご自分が今ここに生きている証拠を、食べ物を食べることでお示しになりました。
ヨハネによる福音書にだけ記されていることですが、同じようにイエス・キリストは疑う弟子の一人トマスに対して、自分の手に残る釘の後、わき腹に残る槍の傷跡をお示しになりました。
これらの記事を読んだ後の時代の人たちが、それを信じるかどうかは別の問題ですが、しかし、そのことを体験した弟子たちにとっては、復活のキリストはそれほどにリアリティを持ったものだったのです。幻とか亡霊とか、心の中の思い出とか、そういうひとくくりの言葉では決して片づけることができないほど、キリストの復活の体は確かなものだったのです。
こうした復活についてのエピソードが記されているのは、ほかでもなく復活の現実性を後の時代の人々に証しするためであることは疑いようがありません。
しかし、この日エルサレムで起こった出来事は、ただそれだけのことではありません。ルカによる福音書によれば、この時、初めて弟子の集まりの中に、復活のイエス・キリストはご自分の姿を現されたのです。
それは複数の目が復活のキリストを目撃したという証拠の確かさの問題というばかりではありません。複数の証人ということであれば、すでに、エマオ村に向かう二人の弟子たちにその姿を現しただけでも十分でした。
そうではなく、集いの中に復活のキリストはその姿を現してくださったということです。復活のキリストとの出会いはただ個人の体験ではありません。キリストの弟子として集まる人々の中に、復活のキリストはその姿を現してくださるのです。
その時以来、弟子たちが週の最初の日、キリストが復活された日に集まるのは、礼拝を通して、この場にいてくださる復活の主とまみえるためにほかなりません。
弟子たちの集まりに姿を現してくださった復活のキリストは、今もなお、日曜日ごとに集まる教会の群れの中に共に集ってわたしたちを励まし導いてくださるのです。
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