3・11から大きく変わってしまった日本。私たちは戸惑い苦しみながらもなんとかできる事をと願い、多くの人々が繋がり支えあい生きています。刻々と変化する毎日の中でそれぞれの日常も大きく変化せざるを得ないですね。私も今週は被災地へと赴く予定です。そこで与えられたことをまたお伝えします。
この度の未曾有の日本を襲った大震災の中で、私の心に繰り返し響く二つの言葉がありました。今週と来週はその言葉をお伝えしながら番組をお届けします。
今日のタイトルの「一日の始めに」この祈りの言葉です。これは、「祈りの花束−聖書から現代までのキリスト者の祈り−」(ヴェロニカ・ズンデル編・中村妙子訳・新教出版社)にある祈りです。
私の本棚にある本は初版本で、1987年ですから、もう25年近く前にもなるのですね。今まで講演会を頼まれて伺うとき時、私はいつもこの祈りの言葉を口にしました。番組でも紹介したことが随分前にあったと思います。今日これで自分のいのちは最後かもしれないと思うことはありませんか?私は十代の頃からいつも心の中に憂いがあって苦しんでいました。「死ぬ」ことがまだ遥か遠いことのように思える年齢で、これから生きていかなければならないのに。でもその悩みがあったからこそイエス・キリストに出会えたのですね。このことはまた次回お話します。
3・11、瞬時に全てが失われてしまったこと。それは夢ではなく現実であり、何十万人の人々、いやもっと何百万人の人生が変わり、試練の中、日本のこれからも変わって行かざるを得ない事態です。まさに日本の歴史が変わる、その瞬間に私たちは生かされているのですね。
私はここ暫く呆然とした中で、収録の録りなおしなどに忙しく動き回り、しっかりと日常を生きて行こうと心に思い、自分に出来ることをしようと思いながらも「いったい何を語れば…」という気持ちが押し寄せて番組作りが出来なくなってしまいました。長年担当して来ましたが初めての経験です。もちろん福音を伝える使命は忘れていませんが言葉にならない…黙っているほうが良いのでは?という気持ち。
誰でも深刻な事態を経験するとそんな気持ちが出てきます。どんな言葉も人間の言葉では不十分!と感じてしまうのです。「頑張れ!」と言われても「それは違う!」と叫んでいる人々もいるでしょう。今あなたはどこで生きているのでしょうか?どうか今日を生きるいのちをイエス・キリストの恵みの中にいただけますように。
では番組の最後に祈りの言葉をご紹介しましょう。 くまだなみこ
「一日の始めに」(トマス・ア・ケンピス「キリストにならいて」の著者 1380‐1471)
一日が何をもたらすか、いったい、誰にわかりましょう?
ですから神さま、一日一日をこの世における最後の日であるかのように 生きることができますよう
どの日も、この世の最後の日とならないともかぎらないのだということを、私は知っています。
やがて死を迎えるときに、あのように生きてこられたらよかったのにと考えるような、そんな生きかたが日ごとにできますよう、
良心に罪の呵責を感じ、いまだに悔いていない罪を意識しつつ、死を迎えることがありませんよう。
ただ一人の救い主、贖い主でありたもうキリストのうちに日ごとに住まうことができますように。