おはようございます。宿毛教会の酒井啓介です。
聖書には次の言葉があります。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6:33)。「これらのもの」とは、昔、明日の食べものや着るもののために心を遣いすぎている人たちがいまして、その食べるものや着るもの、すなわち日常生活に必要なものをさして語ったわけです。このようなものに心を遣いすぎ、ほかのもっと大切なことを忘れてしまう。わたしたちに命を与え、人生を導いておられる神を忘れてしまうほど、日常生活のことに心を遣いすぎ、また焦らせてしまう。そういうことはないでしょうか。
わたしたちは、貪欲の罪を犯しやすいことに気がつかなければいけません。欲しい物がある時、どうやって手に入れようか、お買い得に手に入れるためにはどうすればいいか、頭を使います。お買い得に買い物をするため、インターネットを駆使し、また、クレジットカードやポイント制やクーポン券など、勿論大変ありがたい制度ですが、ついついその買い方に心を遣いすぎてしまう場合はないでしょうか。そのようにわたし自身、買い物に時間をかけすぎないようにと、いつも気を遣っているつもりです。そうでないと、求めているものよりももっと大切なものを失ってしまうからです。
そうならないように、やはり心を確かな方向へ向ける必要があります。それは、神の言葉です。「神の国と神の義を求めなさい」と言われていました。神の国、どこにあるのでしょう。例えば、誰々の国という場合、その国を支配する一番偉い人がその誰々さんになります。神を一番偉い方として生きれば、その場に神の国があることに少しずつ気付いてくると思います。また神の義とは、神の正しさのことです。神を一番大切にし、神が語る正しさを求めるなら、わたしたちに必要な物は「みな加えて与えられる」のです。逆に、神の国と神の義を求めないなら、求めているものが与えられないどころか、今持っているものも奪われてしまうかもしれません。
わたしは高校生の時に苦い経験をしました。中学生の時から部活で陸上部に所属していまして、高校に入学してすぐに陸上部に入りました。その時に履いていたランニングシューズはすでに古くなっており、新しいシューズを買おうと思いました。ここまでは問題はなかったと思います。新しいシューズを買うのにお金を貯めなければならず、なかなか買えず、シューズのことで頭がいっぱいになりました。
その頃、わたしはすでに教会に通っていて、神に献金を捧げる習慣があったのですが、献金すると決めていたお金をシューズに回して買いました。後でまとめて献金すればいいだろうと思ったわけです。これがいけませんでした。神が生きておられるなら戒めるはずでしょう。そのとおり、わたしにとって予想外のことがおこりました。新しいシューズを手に入れ喜んで練習していたら、足に今までしたことのない怪我を負い、走れなくなったのです。治療してもなかなか治らず、練習はどんどん遅れてしまい、悩み悩んで結局大好きな陸上部を辞めてしまったのです。辞めてから足は治りましたが、部活のために靴を買ったのに部活を辞めることになってしまったのです。こうなったのは、まず神の国と神の義を求めなかったからだと思いました。この経験は心に深く刻まれました。しかし、この経験のおかげで、まず神の国と神の義を求めるべきことを学ぶことができ、この経験を心の深いところで感謝しています。