おはようございます。高知教会の久保薫です。
聖書の中に「ルツ記」という短い物語があります。ルツ記とは言いますが、むしろルツとそのしゅうとめ、ナオミの物語と言った方がいいかもしれません。ナオミは聖書の神の民、イスラエルの人でした。あるとき国を飢饉が襲い、生き延びるためにナオミの夫はナオミと2人の息子を連れて、異国の地に移り住みました。しかしそこで、夫はナオミと息子たちを残して死んでしまいます。息子たちはその後それぞれ土地の娘を妻に迎えますが、後にその2人もそろって死んでしまいました。夫と2人の息子に先立たれたナオミと、若くして未亡人となってしまった2人の嫁が残されました。その嫁の一人がルツでした。すべてをなくしたナオミは故郷に帰ろうと旅立ちます。
彼女は、まだ若い2人の嫁をこのまま未亡人として終わらせるには忍びないと思いました。しかも、ナオミにとっては故郷でも、嫁たちにとっては見知らぬ異国です。ナオミの説得で、嫁の一人は自分の国に帰って行きますが、もう一人のルツはどこまでもナオミに従っていくと言ってききません。その時のルツの言葉がこうです。「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神。あなたの亡くなる所でわたしも死に、そこに葬られたいのです…」(ルツ1:16)。もちろん、しゅうとめナオミに対する深い愛情から出た言葉でしょう。夫も息子も亡くした義母(はは)をひとり帰らせるわけにはいかないという思いやりの気持ち。しかし、この言葉にはそれだけではない、一つの決断とも言うべき意味が含まれていると思うのです。ルツは自分の国を捨て、自分の神を捨てて、ナオミの神に従うと言っているのです。
ルツに、そう決断させたものは何だったのでしょうか。ルツが見た「ナオミの神」はナオミに何をしたでしょうか。ナオミに恵みを与え、祝福で満たしてくれる神だったでしょうか。ナオミ自身が故郷の人たちにこう言っています。「ナオミ」という名は、「快い」という意味なのですが、それに事掛けてこう言っているのです。「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。出て行くときは、満たされていたわたしを 主はうつろにして帰らせたのです」(ルツ1:20、21)。これを見る限り、ナオミの神は決して自分の神を捨ててまで従って行きたくなるような神には思えません。しかし一方、ナオミは嫁たちに別れを告げながら、「どうか主が…あなたたちに慈しみを垂れてくださいますように。どうか主がそれぞれに新しい嫁ぎ先を与え、あなたたちが安らぎを得られますように。」と言っています。たとえ、自分をひどい目に遭わされたとしても、ナオミにとって慈しみを祈るべき神は、ただお一人の神しかいませんでした。ナオミはわが身の不幸を嘆きながらもなお神を「主」と呼び、苦しみを与えられるのも、慈しみを与えられるのも、ただおひとりの神しかおられないことを言い表していたのです。
この神こそ、真の神であると証ししていたのです。それがルツの心を深く動かしたのではないでしょうか。実際、ルツ記を読み進んでいただければ、その後のナオミとルツがどんなに神様から祝福されたかがわかります。ルツは、神の御子イエス・キリストの系図にも名を残すことになります。
神に従う者にも苦しみはあります。神様は時として御自分を信じる者をひどい目にあわせることがあります。その理由さえ、理解できないこともあります。しかし、それでも神様はわたしたちを愛していて下さいます。ナオミやルツ以上に、わたしたちにはそのことが明らかにされています。神の御子、イエス・キリストが来て下さったからです。ラジオの前のあなたも、イエス・キリストを、そして、神の愛を信じる人生を送られますようにと祈ります。