キリストへの時間 2011年7月24日(日)放送 キリストへの時間宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山脇栄子(南与力町教会執事)

山脇栄子(南与力町教会執事)

メッセージ: 神様からのプレゼント(1)-杖をつきますか?

 おはようございます。南与力町教会の山脇栄子です。年に一度ラジオを通して皆さまにお目にかかれることを大変嬉しく思います。一年間は長いようで短く感じられますが、皆さまの一年の歩みは如何でしたでしょうか。わたしは様々な問題を抱え込んだ一年でした。今日はその話の前に、聖書を読まさせていただきます。旧約聖書のコヘレトの言葉、3章1節「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」。今日はこの聖句を覚えてお話をさせていただきます。

 「何事にも時がある」と、神さまはわたしたちにその時々にかなった生き方をしなさいと示されています。もう少し聖書を読み進めていきますと、年を重ねることに喜びはないという年齢にならない前に、と教えられています。わたしたちの歩む道は全て神さまが準備してくださっているにもかかわらず、今おかれている状態よりもさらに楽な方へ、楽しい方へ歩いて行こうとするものです。

 仕事から解放されたわたしは今までしたくても出来なかったことをしようと思い、まず毎日の散歩を始めました。1時間でも2時間でも時間はいくらでもあります。近くの公園や、雨の日は帯屋町のアーケードなどを散歩し、あっちにキョロキョロ、こちにキョロキョロと、昼間の時間帯に街中を歩けるという喜びにひたっていました。ところが或る日、はりまや橋近くの交差点で信号を渡りきったところ、1cmたらずの段差のつま先をひっかけ、歩道に大の字に倒れてしまいました。周囲の方もびっくりして、駆け寄ってくださり、心配そうに様子を伺ってくれましたが、「大丈夫、大丈夫」とすぐに立ち上がって、その場を急いで離れました。顔から火が出るとはこのことで、どこかに消え入りたいと思うほどでした。その後、近所の公園に散歩に行く途中、左足が引きつり、腰痛も伴って、動けなくなり、とうとう散歩を断念せざるを得なくなりました。
 病院では、骨粗しょう症や脊椎狭窄症などの診断が下され、ドクターから「杖をつきますか?」と聞かれました。その時、「杖など要りません。まだまだ自分の足でしっかり歩きます」と強がりを言ってしまいました。ただ、コルセットをすることを勧められ、コルセットをつけ始めましたが、時間が経つうちに家から100mと離れていないバス停まで歩くことができなくなり、とうとう杖をつくことになりました。

 バスを待つとき、歩くとき、身体を支えているとき、杖をつくと立ちやすく、また、歩きやすくなり、今まで、自分の力だけを考えて杖を嫌っていた自分が情けなくなりました。そして、驚いたことは、杖をついているわたしに周囲の方がやさしく声をかけてくださり、荷物を持つのを助けてくださったり、座席を譲ってくださったり、優しい心遣いをしてくださったことです。杖というこの一本が弱ったわたしの身体の支えとなってくれているだけでなく、もっと力強い杖がわたしに与えられていることに気付きました。心も身体も、全てを支えてくださっている杖に気付きました。それは聖書が語られている神さまの支え、神さまを頼みとする人生に全てを支えてくださる杖があるということに気付いたのです。

 讃美歌の270番には「信仰こそ旅路を導く杖」とあります。わたしたちの人生はどこで、どのようにつまづき、大きな困難が与えられるかわかりません。イエスさまは、「悩んでいる人はわたしのところに来なさい」と呼びかけてくれています。自分の好きなように人生を歩いてきたわたしに、神さまは「杖なしでは歩けない」という大きな試練を与えてくださいました。今までの自分の人生を振り返ったとき、家族の一人ひとりに心を砕くことなく、全て自分の生活を中心にしてきたことを反省させられます。わたしは友人から「あなたは三日間、家に閉じ込められたらきっと発狂するね」と言われるほど、外に飛び出していました。そして今外に出ることが困難に成ってみて初めて、家族や周囲の人々にいかに支えられて生活してきたかを思い知らされています。神さまは、こんなわたしに足を痛めるということを通してじっくりと聖書を読み、祈り、家庭での生活や教会での生活を大切にしなさいと、言われているように思います。
 そして、信仰こそ旅路の杖であることを教えてくださったのです。神さまがいつもわたしたちを支えてくださることに感謝して、今日も歩んでいきましょう。

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