おはようございます。山下正雄です。
先日やっと訪れた自由民権記念館で発見したことをお話します。この記念館は20年ほど前に高知市制百年を機に建てられた施設で、明治初期に土佐から始まった自由民権運動の意義を後世に伝える目的を持っています。
この自由民権運動の担い手の一人に植木枝盛という人物がいます。わたしが植木枝盛の名前を初めて知ったのは高校三年生の時でした。日本史の教科書の片隅に載っていた名前が印象的だったので、すぐに覚えました。「植木の枝の盛り」とはおかしな名前です。
しかし、この人が一体何をした人なのか、自由民権運動と深いかかわりのある人物という以外には、何の知識も持ち合わせていませんでした。
植木枝盛は1875年、19歳で上京し、福澤諭吉のもとで学んだ人物で、キリスト教にも深い関心を寄せていました。アメリカの長老教会の宣教師マーティンが中国語で著した『天道溯原』(てんどうそげん)という3巻からなるキリスト教の教理を記した書物も読んだことがあるそうです。ですから、キリスト教についての知識はかなりのものがあったようです。タムソンやフルベッキなどの宣教師の活動を助け、坂本直寛のキリスト教の家庭集会にも熱心に通い、キリスト教関係の多くの講演会にも講師として招かれた人です。ただ、残念なことに洗礼を受けるところまでは至っていなかったようです。いずれにしても植木枝盛の背景にはキリスト教の影響がつよかったであろうことは想像できます。
そのことはさておくとして、今回、自由民権記念館を訪問して、植木枝盛のことで二つの知識を新たに得ました。
一つは、植木枝盛は「民権数え唄」というのを作って自由民権運動を啓蒙したということです。その数え唄はこんな感じで始まります。
「一つとせ、人の上には人ぞなき、権利にかわりがないからは。二つとせ、ふたつとはない我が命、捨てても自由のためならば。」
今でいえばコマーシャルソングを使った啓蒙運動ということでしょう。歌で世論を盛り上げるというのは当時の手法なのかもしれませんが、それにしても、その斬新さに驚きました。
もう一つのことはもっと驚きなのですが、植木枝盛は202条からなる「東洋大日本国国憲法」と呼ばれる憲法の私的草案を書き著したことです。このこと自体は、ほかにも何人かの運動家によって私的な憲法草案が書き著されていましたから、驚くべきことでもないかもしれません。問題はその内容です。
今日でいうところの「抵抗権」や「革命権」についてさえも言及していることです。その第70条でこう規定しています。
「政府国憲ニ違背スルトキハ日本人民ハ之ニ従ハザルコトヲ得」
政府が憲法に反することを求めるとき、その命じるところに従わなくいてもよい、という権利です。もちろん、抵抗権や革命権については、当時の欧米社会でも知られていました。福沢諭吉はその著書『西洋事情』の中で「アメリカ独立宣言」を翻訳していますが、そこにはこの権利についての言及があります。植木枝盛は福沢諭吉の下で学んでいますから、そういう知識も蓄えていたはずです。ただ驚くべきことは、そうした権利をこの時代の日本の憲法に持ち込もうとしたことです。
ところで、聖書の教えでは、上に立つ権威には従うべきであることはいうまでもありません(ローマ13:1)。しかし、上に立つ権威が神の正義に背くとき、初代教会の使徒たちは恐れずこう述べました。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」(使徒5:29)。