おはようございます。清和学園の後登雅博です。
私たちはイエス・キリストを見ることは出来ません。何故なら、キリストは死からよみがえった後、天に昇ったからです。そうすると、今やキリスト教の神様は遠く離れた天から私たちを見守っておられるだけなのでしょうか。いえ、そうではありません。イエス様は、私たちのために別の助け主を送ると約束してから、天に帰ったからです。その別の助け主とは、聖霊と呼ばれる神様です。
聖なる霊と書いて、聖霊です。「霊」と言うと、とたんに何か怪しいような印象を持たれるかもしれません。しかし、聖書では聖霊は「弁護者」とも訳されています。そして、聖霊とはキリストの霊とも呼ばれる神です。つまり、キリストに代わって私たちを助け、私たちを弁護してくださる神を聖霊と呼ぶのです。
では、聖霊なる神様はどのように私たちを助けてくださるのでしょうか。それは、あらゆる局面を通してと言ってよいかと思います。つまり、私たちがどのような道を歩む時もどのような選択をする時も、聖霊なる神は私たちを導いてくださると言うことです。
でも、そんなことを言われてもにわかには信じがたいかもしれません。何故なら、現実には「失敗したなあ」と思うような選択をしたり、後悔するようなことがあるからです。実は、私もそうです。本当のことを言えば、自分の人生を振り返ると後悔の連続です。
しかし、ココに盲点があるのです。と言うのは、間違ったと思うこと、思い通りに行かなかったこと、これらは全て自分の考えなのです。つまり、自分では失敗と思っても結果的にはうまくいったということがあるのです。逆に、良い選択をしたと思ったのに振り返ってみれば思った結果ではなかったと言うこともあるのです。いずれにしても、自分を中心にした考えです。そして、どちらも「人生の途中の段階」で、自分の感じていることなのです。あなたの現在がどうであれ、それはあくまでも人生の道半ばなのです。
さて、聖霊なる神はどんな時も、どんな場面でもあなたを助けてくださいます。ですから、その時どきにおけるあなたの選択はその時における最善の選択であったのです。人生を振り返って後悔することがあったとしても、あなたのその時の選択はもっともベストな選択だったのです。それ以外に選びようがない選択だったのです。時には、苦渋の選択というのもあったでしょう。それこそ、やむにやまれぬ決断もあったでしょう。
しかし、どのような時にもあなたには聖霊の導きがあったのです。そして、過去の選択、現在の決断が未来へとつながっていきます。聖霊に導かれて歩むなら、神の目に最善と映る道を歩むことになるのです。しかも、聖霊は強引にあなたを神の望む方向へと進ませようと言うのではありません。もしも、人間の意思を無視して聖霊が働くなら、もはや人間は自分の意思を持たないロボットのようになってしまいます。
しかし、聖霊は私たちの意思を尊重しながら私たちを導いていくのです。ですから、少しずつ少しずつ、しかし確実に最も良い未来へと進んでいるのです。ですから、私たちは人生の途上にあるのです。全てを見通し、導くことが出来る神に信頼して歩むこと。これこそが最善の選択なのです。