タイトル: 同じ翻訳なのになぜ? ハンドルネーム・グレープさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・グレープさんからのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生に質問です。たまたま気がついてしまったので、質問させていただきます。うちの教会では新共同訳聖書を使って、聖書研究会や祈祷会での学びをしています。この前、みんなで聖書を輪読したときに、おやっと思った個所がありました。他の人が読む訳とわたしの訳が、微妙に違うのです。もちろん、みんなもわたしも、手にしているのは新共同訳聖書です。違う翻訳聖書なら訳語が違うのは分かります。
その個所というのは、コリントの信徒への手紙二の6章10節です。わたしの聖書では『貧しいようで』となっていますが、他の方の聖書では『物乞いのようで』となっています。確かに、貧しいから物乞いをするのかもしれませんが、貧しい人が皆物乞いをするわけではないので、ちょっと言葉のニュアンスに違和感を感じました。
その日はそれ以上のことは考えずにそれで終わってしまったのですが、別の日に、また違う個所で、翻訳の違いを発見してしまいました。今度は使徒言行録2章6節です。他の方の聖書では「故郷の言葉で使徒たちが話しているのを聞いて」とあるのに、わたしの聖書では「故郷の言葉で話されているのを聞いて」と訳されています。もちろん、どちらも新共同訳聖書です。たまたま二回も発見してしまいましたので、気になってしまいました。
ミスプリントというにはあまりに違うので、このあたりにことを質問させていただきたいと思いました。よろしくお願いします。」
グレープさん、お便りありがとうございました。一人で聖書を読んでいるときには、なかなか気がつかないわずかな違いですが、みんなで一緒に聖書を学んでいると、おやっと思うことを発見することがあると思います。もちろん、翻訳が異なる聖書を持ち寄って学んでいるときには、違いの発見で学びも一層深くなるということがあります。そういう翻訳聖書の違いによって、新しい発見をしたというご質問は、今までにも何度か取り上げたことがあると思います。
しかし、同じ新共同訳聖書なのに、翻訳が違っていると戸惑いを感じてしまいます。つい最近ですが、この番組でも「重い皮膚病」をめぐる翻訳が、同じ新共同訳聖書でも出版された年代によって差し替えられているというお話をしました。こう言う個所はそんなにたくさんあるわけではありませんが、しかし、少しずつ改訂されているというのも事実です。
通常は、大きな翻訳の改定作業がない限り、一度定めた翻訳をいじるということは、原則としてしないのがルールです。あまり頻繁に小さな改定を繰り返していると、その翻訳自体の信頼性に対して疑念を抱かれてしまうからです。特に教会の礼拝で用いる聖書の場合、頻繁に細かな改定してしまうと混乱が生じてしまいます。
けれども、放置しておくことができないような訳をそのままにしておくのは、これもまた翻訳者の姿勢と良識を疑われてしまいますので、先ほども言いましたように、少しずつ手を入れているというのも事実です。これは新共同訳聖書に限ったことではなく、新改訳聖書でも小さな改定作業を繰り返してきました。そして、通常はそうした小さな改定作業をおこなったことは、いちいち読者に報告されることはありません。気が付いた人が気がつく、という程度のものでした。よほど内部の関係した人でもない限り、その改定個所の一覧を手にすることなどもありませんでした。
ただし、新共同訳聖書の場合は、最近ではホームページにその情報が公開されています。もし興味がおありでしたら、日本聖書協会のホームページでご覧になってみてください。
しかし、改定個所の一覧と、その改定がいつ行われたのか、という情報は得ることができるのですが、なぜ改定する必要があったのか、改定することで何がどう変わったのか、という説明は必ずしも明らかではありません。ただ、大きな原則だけが公表されているだけです。それは、明らかなミスプリントや差別用語など急を要するものを除き最小限にとどめるという原則です。
確かに一覧表を眺めていると、明らかにミスプリントだったり、日本語の間違いだったり、差別用語だったりする個所が改められているのは、一目瞭然ですが、なぜ改定したのか、その理由がよくわからない個所もあります。
これはある意味でいえば、聖書翻訳のジレンマかもしれません。聖書協会の翻訳聖書の場合、聖書本文以外に、聖書の解釈について解説を記したり、翻訳についての脚注を原則として載せないことになっています。それは特定の聖書解釈を読者に押し付けないためです。
しかし、この番組でも何度もお話をしたことがあると思いますが、翻訳という作業自体が、聖書の本文を解釈しなければできない作業です。場合によっては一つの解釈だけを翻訳文に反映させざるを得ないということもあり得るわけです。訳文の変更は、単なる差別用語の訂正やミスプリントの訂正にとどまらないこともあるわけで、結果的には神学理解にも影響を及ぼしてしまうこともあるわけです。もっとも、それほど大きな変更は、わたしの見る限り、していないように思いますが、個々の改定の理由を明らかにしないために、かえって疑心暗鬼になってしまうかもしれません。
さて、今回ご指摘のあった個所をみてみると、まず、コリントの信徒への手紙二の6章10節はどうでしょう。
改訂された訳文では「物乞い」が「貧しい」に変更されています。「物乞い」という言葉は、依然として他の個所で使われつづけていますから(マルコ10:46、ルカ16:3他)、差別用語とみなされたわけではないでしょう。原文のギリシア語では「プトーコイ」という言葉が使われており、この言葉は「心の貧しい人々は、幸いである」という山上の説教にも出てくる「貧しい」という意味の言葉です。新共同訳聖書では「貧しい」と普通は訳していますが、ご指摘のコリントの信徒への手紙二の6章10節だけ、どういうわけか「物乞い」という異質な訳語が使われていたのです。もちろん、「プトーコイ」というギジリア語に「物乞い」という意味はありません。明らかな誤訳と考えて訂正したものと思われます。
では、もうひとつの個所はどうでしょう。使徒言行録2章6節です。
ここはペンテコステの日に一同が聖霊に満たされて、他の国々の言葉で語りだす場面です。エルサレムに来ていたあらゆる国の人たちが、その言葉を聞いて驚いたというところを描いた個所です。古い版の新共同訳聖書では「使徒たちが話しているのを聞いて」とあります。ところが、新しい版になって「使徒たち」という言葉が省かれ、受身で「故郷の言葉が話されているのを聞いて」となっています。これは原文で見ると「彼らが話しているのを聞いて」となっていますから、最初の版の訳では「彼ら」を意訳して「使徒たち」と理解したようです。確かに明らかな誤訳とは言えませんが、ここでいう「彼ら」は「使徒たち」に限定できるとは言い切れません。ペンテコステの日に集まっていたのは、1章15節に記される「百二十人ほどの人々」も含まれている可能性があります。そして、その方がペトロが引用した預言者ヨエルの言葉とも一致します。聖霊に満たされて預言をするのは、男だけではなく、娘も息子も、若者も老人も含まれているからです。
おそらく、新しい版の翻訳は、「使徒たち」という意訳を、限定しすぎた訳と考えたのではないでしょうか。
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