タイトル: 十字架の苦しみと罪の大きさ 茨城県 ハンドルネーム・チャボさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は茨城県にお住まいのハンドルネーム・チャボさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生、いつも放送聞いています。録音したのを聞くので時々取り方が悪くて録音できない時もあるのですが、大体聞けてます。
ところで、先日DVDで『パッション』を見たのですが、見ていて考えたことが二つありました。
一つは、キリストの十字架での『苦しみ』のことです。旧約の時代には、罪の赦しのために動物がささげられました。捧げられるにあたって動物は苦しまずに命を絶たれました。それによって人々の罪があがなわれました。ところが、キリストは私たちの購いのために殺される前に考えられないほどの苦しみにあわれました。なぜでしょうか。イザヤの預言の成就という観点からは理解できます。でも、旧約との対比からいくと苦しまずに命が絶たれても罪の贖いはできると思うのですがいかがでしょうか。
また、世界中で私一人が罪を犯したとしてもキリストは十字架の苦しみを味わわれたであろうことを考える時に『罪』とはそんなにも大変なことなのだろうかと考えてしまいます。たとえば、その罪が心の中で犯した小さなものであったとしてもです。
山下先生のお考えを聞かせてください。よろしくお願いします。」
チャボさん、いつも番組を聴いてくださってありがとうございます。また、番組へのお便りありがとうございました。
お便りを読ませていただいて思い出したのですが、ヨハネによる福音書やルカによる福音書を読んでいて、「おや」っと思ったことがあります。それは、キリストの十字架の場面が、あまりにもあっさりと描かれているということです。余程想像力を働かせて読まない限り、痛みや苦しみがまるでないかのように勘違いしてしまいそうです。
古代のさまざまな文書がこぞって証言しているところによれば、十字架刑は、あらゆる処刑方法の中で最も残虐なものであると言われています。
しかし、ヨハネとルカの二つの福音書には十字架刑の痛みや苦しみを描いた言葉がほとんど見当たりません。そうであるだけに、十字架のキリストを題材にした映画を見ると、あまりにも残虐なシーンにショックを受けてしまいます。
そもそも、一般人であるわたしたちには、誰かの処刑に立ち会うなどどいう経験は、一生に一度もないはずです。
以前、幕末の頃に日本にやってきたアーネスト・サトウというイギリス人の外交官が書いた『一外交官の見た明治維新』という本を読みましたが、その中に英国人を殺害した日本人の斬首刑に立ち会ったという記事がありました。いわゆる鎌倉事件の犯人の処刑場面です。処刑の付添い人が、首をはねた遺体から揉みだすように血を絞っているのを見て、その身の毛のよだつような凄惨な光景に、刑に立ち会うのではなかったと後悔の気持ちを綴っています。そんな残虐な場面を目撃して、平常心を保てなくなるのは当然でしょう。
ちなみに、現行の日本国憲法では残虐な刑罰を絶対に禁止していますが(日本国憲法36条)、死刑そのものは残虐な刑罰ではないとみなされています。しかし、火あぶりやはりつけ以外の方法が残虐でないかというと、そうではないでしょう。一般人のわたしの感覚からすれば、どんな方法であれ、処刑の場面に立ち会ったなら、平常心を保つことなどとてもできないことです。
さて、話が横道にそれてしまいましたが、十字架刑ともなれば、その残虐さは想像するに余りあるものがあるはずです。お便りの中にもありましたように、人類の罪を贖うために、そこまで残虐で苦しい死に方をする必要が、果たしてあったのでしょうか。まず、そのご質問がら考えてみたいと思います。
ただその前に、もう一つ「おや」っと思ったことがあります。いただいたお便りの中に、旧約時代にささげられた犠牲の動物は「苦しまずに命を絶たれた」とありました。ほんとうにそうでしょうか。
わたし自身は旧約時代の動物犠牲が屠られる場面を目の当たりにした経験はありません。しかし、生きた動物を絞め殺して食べた経験ならあります。
中学生のころ、ボーイスカウトでキャンプに行った時、生きたニワトリを絞め殺して料理をするという訓練がありました。確かに瞬時に絞め殺すとは言っても、「苦しまない」と言えるようなものでは決してありません。
あの小さなニワトリでさえそうなのですから、まして、動物犠牲としてささげられた大きな牛や羊がまったく苦しみも痛みもなくささげられたとは思えません。
どちらにしても、ヘブライ人への手紙が語っているように「血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです」(ヘブライ9:22)。そして、血を流すということには、痛みも苦しみも伴うものです。
そもそも、イエス・キリストが十字架で引き受けてくださったのは、罪に対する神の裁きでした。罪に対する罰が痛みも苦しみも伴わなくても済むようなものだとしたら、キリストの身代わりの死はどれほどの価値があるというのでしょうか。
罪に対する神の態度には厳しいものがあります。神は愛なるお方ですが、正義をないがしろにして、愛をお語りになるようなお方ではありません。キリストの十字架にこそ神の最も厳格な義があらわされ、そのキリストの十字架によって満たされた神の義があるからこそ、神の愛をわたしたちはこの上なく受け取ることができるのです。
旧約聖書の動物犠牲は、やがて実現されるキリストの十字架による罪の贖いを指し示す影のようなものでした。影は本体そのものではありませんから、本体の代わりになることはできません。ヘブライ人の手紙が語っているとおり、動物犠牲はキリストを指し示す影にすぎません(ヘブライ10:1)。しかし、その影にすぎない動物犠牲でさえ苦しみを伴うのですから、本体であるキリストの犠牲が痛みや苦しみを伴わないはずがありません。そして、その犠牲にこそ、わたしたちの救いはかかっているのです。
最後に、もし世界でわたしだけが罪を犯し、しかも、心の中でだけ罪を犯したとしたら、それでもキリストの十字架の苦しみは必要だったでしょうか。
こういう仮定の上での質問にはお答えすることができませんが、ただはっきりと言えることは、キリストがいなくても赦されるほど小さな罪も無ければ、キリストがいたとしても救うことが出来ないほど大きな罪もありません。神はたった一匹の羊が救われることを喜ばれるお方ですから、その一匹の羊のためにはどんなことでもなさって下さいます。
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