BOX190 2011年2月2日(水)放送    BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 主と神は同じ? 神奈川県 ハンドルネーム・ヨハネジョンさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は神奈川県にお住まいのハンドルネーム・ヨハネジョンさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「祈りをささげるときに『天の父である神様』『主イエズス・キリスト』と言いますが、主と神は同じですか。恥ずかしい質問ですが、よろしくお願いします」

 ヨハネジョンさん、お便りありがとうございました。お祈りの中で、お祈りをささげる相手である神様を、どのように呼びかけるのか、わたしはいつも一人一人のお祈りの言葉づかいを興味深く聴かせていただいています。その人が神様をどんなふうにとらえ、神様とどんな関係にあるのか、祈りの言葉づかいにその人の信仰を垣間見るような思いがするからです。

 それはさておくとして、キリスト教の祈りの中で、神に呼びかける一般的な言葉は、「神」か「主」のどちらかです。そして、それぞれに修飾語がついて、長い呼び名になったり短い呼び名になったりします。
 たとえば、「天にいます父なる神様」とか「恵みと慈しみに富んだ神様」とか「天地万物をお造りになり、御力をもって支えてくださる主よ」とか、長い短いはありますが、聖書の神を「神」と呼ぶか「主」と呼ぶか、たいていは、そのどちらかです。もちろん、主の祈りのように「天にまします我らの父よ」とだけ呼んで、「神」も「主」も使わない呼びかけもあります。

 さて、ご質問は「神」と「主」とは同じなのかどうか、という疑問についてです。そのことについてお話したいと思います。

 「主」という呼びかけは「イエス・キリスト」についても用いられますので、事柄を分かりやすく理解するために、まずは旧約聖書の中での「神」と「主」について取り上げることにします。

 聖書の世界では「神」と言えば、ただお一人しかいらっしゃいません。それは天万物をお造りになり、み手の力を持ってそれらを支え導いておられるただお一人の神です。そういう信仰を唯一神教の信仰と一般的に呼んでいます。
 唯一神教と似てはいますが、全然違うものに拝一神教というのがあります。唯一神教がほかの神々の存在を認めないのに対して、拝一神教は、他の神々の存在を認めながらも、しかし、自分が信仰するのはどれか一人の神だけとする信仰です。
 さらに、多神教というのもありますが、それは拝一神教とは違って、多くの神々の存在を認めるばかりではなく、同時に複数の神々を信仰する宗教形態です。

 くどいようですが、聖書の信仰は唯一神教ですから、「神」といえばお一人しかいらっしゃらないわけです。したがって「神」というだけで誰のことを言っているのか特定することができます。ただ、その神様がご自身をわたしち人間に示してくださる仕方に応じて、様々な修飾語が付いてくるわけです。恵み深い神であったり、怒ること遅い神であったり、罪を罰せずにはおかない神であったり、そういう修飾語を伴って呼ばれます。しかし、恵みの神、寛容の神、怒りの神がそれぞれ別にいるというわけではありません。

 しかし、一神教の信仰であっても、ほかの人間たちが神ではないものを神として崇め始めると、偽りの神と真の神を区別しなければなりません。一神教の人が「わたしたちは神を信じます」と言っても、一神教でない人たちにとっては、どの神のことを言っているのか通じません。

 そこで自分たちが信じる真の神を、他の神と区別するために、自分たちが信じる神を、固有の名前で呼ぶことがあります。もともと神には固有の名前があったのか、それとも人間が真の神を認識できるようにご自分に名前をお付けになったのか、そのあたりのことは定かではありませんが、出エジプト記の3章13節以下にモーセと神との興味深いやり取りが記されています。そこにはこう記されています。すこし長くなりますが、その個所をお読みします。

 モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」神は、更に続けてモーセに命じられた。「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。 これこそ、とこしえにわたしの名 これこそ、世々にわたしの呼び名」(出エジプト3:13-15)。

 ここで、神はご自身を「わたしはある。わたしはあるという者だ」とご自分を説明して、ご自分を「神である主」と呼んでいます。
 日本語ではちょっと分かりにくいのですが、「主」と訳されている言葉は神の固有の名前で「ヤハウェ」という言葉です。それはヘブライ語の「ある」「存在する」という意味の「ハーヤー」という動詞と似ています。それで、ご自分を「わたしはあるという者だ」と紹介したうえで「神であるヤハウェ」(神である主)とご自分を呼んでいらっしゃるのです。

 けれども、ユダヤ人たちはこの神の固有の名前をむやみに口に出して呼ぶことを恐れました。というのも、十戒の第三戒に「主の名をみだりに唱えてはならない」と言われているからです。そこで、「ヤハウェ」という言葉の部分を「主」と読み変えて読むようになったのです。

 ですから、「主」も「神」も、結局は同じお方を指しているのです。

 さて、新約聖書ではギリシア語が使われていますが、神の固有の名前である「ヤハウェ」は、そのまま音訳されないで、「主人」を表す「キューリオス」という単語がそれに当てられています。もちろん、そういう伝統は旧約聖書のギリシア訳である七十人訳聖書が既にそうでした。新約聖書はその伝統にのっとって、神を「キューリオス」「主」と呼んでいます。例えばルカによる福音書1章11節では「主の天使」という言い方が出てきますが、この場合の「主」というのは神を指しています。あるいはステファノがユダヤ人に対して行った説教の中でも、神は「主」と呼ばれています(使徒7:31)。

 ところで、新約聖書の中でこの「キューリオス」(主)という言葉でもっともよく呼ばれるお方はイエス・キリストそのお方です。もちろん、ギリシア語の「キューリオス」という言葉自体は一般名詞ですから、神に固有の名前というわけではありません。ローマ皇帝も「キューリオス」と呼ばれています(使徒25:26)。
 しかし、問題なのは新約聖書がイエス・キリストを「キューリオス」と呼ぶときに、一般名詞として「主」と呼んでいるのか、それとも神に固有の名前である「ヤハウェ」の意味で呼んでいるのか、どちらなのか、という問題があります。
 新約聖書ではイエス・キリストは神であるといわれていますから(ヨハネ1:1,18、ローマ9:5[新共同訳]他)、キリストをヤハウェという意味で「主」と呼んだとしても不思議ではありません。

 さて、キリスト教の教理では、父なる神と子なる神と聖霊なる神は、三人の神ではなく、三位一体の唯一の神です。三つの区別された位格(ペルソナ)を持ちながら、しかし、本質において同じ一人の神だけを信じています。ですから、父なる神を主と呼び、子なる神イエス・キリストのことも同じように主と呼ぶことができるのです。

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