お元気にお過ごしですか。いずみ教会の小堀です。今日もご一緒に神様を見上げて歩んでまいりましょう。
イスラエルに於いて、ぶどうの木は実にポピュラーな木のひとつです。ある神学者は、最後の晩餐をした二階座敷からもおそらくそれは見えたであろうと言っていますし、ゲッセマネの園に行く途中にもあっただろうと言われているのです。神殿の門にもぶどうの絵柄は彫られていました。ですから、ユダヤ民族にとってぶどうというのは、馴染み深いものであるということができます。
それと共に、ぶどうというのは、聖書に於いてユダヤ民族のことを表しているのです。しかし、神が良いぶどうの木を植えたのに、良い実がならなかった。野生返りして、酸っぱい実をならせてしまったなどと、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ホセア書などに出てきます。つまり、このような預言者達から言わせてみれば、イスラエルの民は神様から大きな恵みを頂きながら、良き実を結ばない出来損ないのぶどうになってしまったということなのです。
しかし、これはイスラエル民族だけのことではありません。私達人間は、神によって造られながら神に背を向け、罪を犯し、つまり、わたしたちは酸っぱいぶどうの実なのだと聖書は言っているのです。
イエスはさま、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(ヨハネ15:5)。聖書でこのように言われました。私達も、神に背を向けていた罪を悔い改めて、イエスを信じれば、酸っぱいぶどうではなくて、豊かな実を結ぶたわわな実を結ぶぶどうになることができます。新しい人生を送ることができるのです。私達の人生、80年、29200日、イエスを信じてあなたもぜひ豊かな実を結ぶ人生を送ってください。それではまた御機嫌よう。