いかがお過ごしでしょうか。川越教会の木村香です。
聖書のルカによる福音書4章に、悪魔がイエス様を誘惑した時のことが書かれています。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」。このもとの言葉の意味は「神の子だから」です。つまり悪魔でさえイエス様が神の子であると認めているのです。そうです。悪魔が仮にわたしを誘惑するとしても、この石をパンにしてみろ、とは言わないでしょう。わたしにはできっこないからです。
一方、その少し後のところに、イエス様が故郷のナザレでお話しなさった時に、町の人たちは「この人はヨセフの子ではないか」と言いました。生まれも育ちもよく知っている。俺たちと同じではないか、いや、面倒を見てやったではないか、というような意味です。それがどうして救い主であろうか。そんなはずはないや、とイエス様を受け入れませんでした。神の子であるイエス様が御言葉を語られても、聞く側に問題があると、耳には届いても心には届かないということです。
さて、今も事情は同じではないでしょうか。イエス様を人格者、偉大な宗教家、と好意を持ちます。しかしそこで止まってしまったら何の役にも立ちません。「イエスという男ならよく知っている、彼と一緒にわたしも育った」と言う人でも信じなかった。それならわたしの生半可なイエス観、イエス様をどう思うか、というところからスタートしては進みません。わたしの判断では5年、10年経っても同じところを堂々巡りするばかりです。
神様がお示しくださるように受け取ることが必要です。神様の御言葉、聖書が示してくれます。聖書は客観的に事実として、イエス様が神の子であり、わたしたちの救い主だと証言しています。どうぞ、その通りに受け止めてください。