いかがお過ごしでしょうか。東京教会の今井献です。
2年前に一般の市民が裁判員として参加する裁判員制度が始まりました。裁判員にとって、刑罰を定めることは大きな精神的負担ではないかと思います。懲役を何年にするのか、懲役刑にするか死刑とするのか。一般の人にとっては、思いもよらない経験だと思います。
ただし、何らかの犯罪を行ったのであれば償いが求められる、そして償いを果たすなら赦されるという考えは、多くの人が受け入れているのではないかと思います。
キリスト教は罪の赦しを教えます。しかし、決して罪の償いを求めません。キリストを救い主と信じるなら償いを求めることなく、すべての罪がゆるされて救われる、これがキリスト教信仰の中心です。
なぜなら、キリストが受けた十字架は、人の罪に対する神の刑罰の身代わりになって受けた苦しみであり、死であったからです。このキリストを信じる者は、信仰によってキリストが受けた刑罰にあずかります。そして、神は、刑罰をすでに受けて償いを果たした者とみなしてくださいます。
このキリストによる罪の赦しと救いがよく分かるのは、使徒言行録7章54節以下に記されているステファノの殉教と、殺害者サウロの出来事です。サウロは伝道者であるステファノを殺したのですが、神のあわれみによってキリストを信じました。すると、何の償いも求められることなく、すぐに洗礼が授けられ、罪が赦されたことと救われたこととが宣言されました。
神は、わたしたちを救おうとしておられます。神の愛を受け入れ、キリストを信じてください。