いかがお過ごしでしょうか。湘南恩寵教会の鈴木牧雄です。
今日も最初に、聖書の言葉に耳を傾けたいと思います。詩編24編3節からです。
どのような人が、主の山に上り
聖所に立つことができるのか。
それは、潔白な手と清い心をもつ人。
むなしいものに魂を奪われることなく
欺くものによって誓うことをしない人。
主はそのような人を祝福し
救いの神は恵みをお与えになる。
聖なる神の前に立つことができるのは、「潔白な手と清い心をもつ人」であると語られています。ところで私たちは、「手は潔白で心は清い」と言い切れるでしょうか。正直に自分に問いかけると、おぼつかなくなってしまいます。
しかしこの詩編は、「潔白な手と清い心の人」とは、「むなしいものに魂を奪われることなく、欺くものによって誓うことをしない人」である、と語っています。聖書の語る「潔白な手と清い心」とは、いわゆる倫理道徳的に清く正しいことではありません。「むなしいものに魂を奪われ」て自分の心を欺いたりしないこと、むしろ本物を見分けて一途であること、これが心の清さ潔白さです。
もちろん、私たちの見分けるべき本物とは、聖なる神に他なりません。そして、このお方を一途に求める人は、たとえ心や行いが潔白であると言い切れないとしても、必ず救われ豊かな恵みに満たされます。これが聖書の約束です。