御機嫌いかがですか。花小金井教会の牧師、川瀬です。
「その人は流れのほとりに植えられた木。」
詩編第1編は主の教えを愛する者の祝福と、そうでない者の悲しい最後が描かれています。祝福も災いも、ある一つ二つのことでななく、どちらも繰り返される習慣の結果です。祝福された人とは「主の教えを愛し、昼も夜も口ずさむ人」。あるいは「その人は流れのほとりに植えられた木」と表現されているからです。木は今日はここに植わっていて、明日は別のところに植わっているのではありません。祝福されるのは流れのほとりに植えられているからです。このような木は時がくれば豊かな実を結び、他の人々にも祝福を分け与えます。
あれをすれば、これをすれば、幸福になれると思うかもしれません。しかし大切なのは、一つ二つのめずらしい経験ではなく、私という木がどこに根を下ろしているかということ、つまり私が毎日繰り返し考え行っている習慣です。パウロは同じことを新約聖書でこのように言っています。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤ5:22、23)。豊かな実を結ぶ生き方は、欲望に従う生活ではなく、神の霊に従う習慣から生み出されるのです。