聖書を開こう 2010年10月28日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: いちばん偉い者とは(ルカ22:24-30)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 英語で牧師などの聖職者のことをミニスター(minister)と言います。同じミニスターという単語は日本語で「大臣」とも訳されます。プライム・ミニスター(Prime Minister)といえば総理大臣のことです。同じミニスターとう単語でも、「牧師」と訳されるのと「大臣」と訳されるのではまるで違ったイメージになってしまいます。
 もともと「ミニスター」という言葉はラテン語で地位の低い者、召使いや僕を表す言葉でした。つまり、他人に仕えて奉仕する人が「ミニスター」なのです。プライム・ミニスターの「プライム」とは「第一等の」とか「最高の」と言う意味ですから、総理大臣は一番仕える奉仕者ということになります。
 そして、このミニスターの働きを「ミニストリー」(ministry)と呼びます。わたしたちのメディア・ミニストリーは、メディアを通して神と人とに仕える団体ということになります。
 きょう取り上げようとしている聖書の個所で、イエス・キリストは上に立つ者こそ仕えるものであるべきだとおっしゃっています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 22章24節〜30節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。そこで、イエスは言われた。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」

 前回取り上げた個所では、イエス・キリストが弟子たちと最後の食事を共にされた記事を学びました。その時、イエス・キリストは過越の祭りの食事に、新しい意味づけをされました。それはイエス・キリストがご自分の体と血とによってたてられた新しい救いの契約でした。

 その最後の食事の席で、イエス・キリストはご自分を裏切る者がこの席にいることをも指摘されました。そのことで弟子たちの間では「いったいだれが、そんなことをしようとしているのか」という議論が起こりました。

 きょうの個所はその続きです。弟子たちは、自分たちのうちに裏切り者がいると聞かされて、大変なショックを受けたに違いありません。一人一人、自分の胸に手を置いて、まさか自分ではないだろう、と神妙な気持ちになったことでしょう。実際、マタイによる福音書の記述では、弟子たちは代わる代わるに「主よ、まさかわたしのことでは」と言い始めたとあります。

 しかし、このイエス・キリストの言葉も、自分のことではないと思い始めると、「一体誰が」という犯人探しの議論になってしまいます。そして、そのうちに、裏切り者を探すよりも、自分たちの中で誰が一番偉いのかという議論にすり替わってしまいます。
 新しい契約を立てるために、死にいたるまで仕える者となって、「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である」「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」とおっしゃるイエス・キリストの言葉もすっかり頭の中から消えてしまったかのようです。

 実は、他の福音書を読むと、誰が一番偉いのかという議論で弟子たちが揉めるのは、これが初めてではありません。マルコによる福音書の10章25節以下を読むと、ヤコブとヨハネが高い地位をイエス・キリストに求めた時に、他の十人の弟子たちは腹を立て始めたとあります。
 しかも、この事件がおこったのは、イエス・キリストがご自分の受難について三度目に予告をされた直後のことでした。イエス・キリストの受難がどういう意味を持つのか、弟子たちには少しも理解できなかったということを証しする出来事でした。

 その同じ弟子たちは、最後の晩餐の席で、イエス・キリストがご自分の死の意味を解き明かされたそのすぐ後で、また同じ議論を蒸し返しているのです。

 この弟子たちの態度はどれほどイエス・キリストを悲しませたことでしょうか。

 しかし、イエス・キリストはこの鈍くて傲慢な弟子たちを決して非難したりはなさいません。いえ、むしろこのような頑なな者たちだからこそ救いが必要なのです。

 イエス・キリストは忍耐強く弟子たちを諭しておっしゃいます。

 「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」

 教会では上に立つ責任のある者ほど、自分の責任のもとにある人々に仕える者であることが求められているのです。最初にも話しましたが、言葉の本来の意味でミニスター、つまり仕える僕であるべきなのです。

 もちろん、この場合の「仕える」というのは、治めるべき人々の言いなりになるということではありません。
 イエス・キリストが命を尽くして人々に仕えたのは、罪からの救いをもたらすためでした。それと同じように、このイエス・キリストが贖い取ってくださった救いを、人々が手に入れることができるようにと、上に立つ責任のある者たちは忍耐と力を尽くして仕える者となることが求められているのです。
 イエス・キリストが救いの道を切り開いてくださったのですから、その救いを人々が手にすることができるようにと、惜しげもなく自分に与えられているすべてを用いることが仕える者の務めなのです。

 イエス・キリストはこの責任ある務めをなによりもまずご自分が引き受けられました。イエス・キリストご自身、こうおっしゃっています。

 「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

 イエス・キリストがご自身を罪の贖いの犠牲としてささげるほどに、わたしたちの救いのために仕えてくださったのです。

 ところで、仕える者となるようにとのイエス・キリストの言葉は、直接には使徒たちに語られた言葉です。しかし、それは将来の教会を治める者たちへの言葉でもあります。
 また、それは指導的立場にある人間だけではなく、クリスチャン一人一人が心に留めておくべき言葉でもあります。

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