聖書を開こう 2010年8月26日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 神は生きているものの神(ルカ20:27-40)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 死者の復活という言葉を聞いて、それがとても馬鹿げていることのように感じるのは、何も現代人ばかりではありません。聖書の時代にも死者の復活ということが、ありえないことと考える人たちは数多くおりました。
 パウロがアテネの町でキリスト教を伝えたときに、話題がキリストの復活のことになると、町の人々は、ある者は嘲笑い、ある者は「それについては、またいずれ聞かせてもらおう」と言って相手にしなかったとあります(使徒言行録17:32-33)。
 それはアテネのような哲学が盛んな町だったからこそ、そういう反応もあって当然かもしれません。しかし、キリスト教のおひざ元とも言うべきユダヤでも事情は似たようなものがありました。特にきょうの個所に登場するサドカイ派の人々は復活について否定的でした。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 20章27節〜40節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」と言う者もいた。彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった。

 エルサレムに入城して以来、イエス・キリストは毎日神殿の境内で民衆に教えを語っていました。そして、このイエス・キリストを快く思わない民の指導者たちは、すでに見てきたように、イエスを何とかやりこめようと躍起になって、様々な論争をふっかけてきました。イエスの権威について、正面から問いただそうとする企ても失敗に終わりました。ローマ皇帝への税金を納めるべきかどうか、という意地の悪い質問も見事にかわされてしまいました。
 きょうの場面で登場するのは、同じユダヤ教の中でも貴族階級に属するサドカイ派の人々です。使徒言行録5章17節がいみじくも語っているように、彼らは特権階級である大祭司の仲間でした。特にモーセの五書を重んじる彼らは、預言書の権威を重要視せず、同じユダヤ教のファリサイ派とは違って、口頭で伝わる伝承にも重きを置きませんでした。したがってファリサイ派の信じる復活や天使の存在についても否定的でした(使徒言行録23:8)。

 そのサドカイ派の人々がイエス・キリストのもとにやってきて、復活についての教えの矛盾点を突いて、イエス・キリストをやりこめようとします。

 そのサドカイ派の議論の筋道は、義兄弟婚と呼ばれる律法に定められた制度に基づくものでした。申命記25章5節以下によれば、兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに亡くなった場合、その兄弟は、その亡くなった者の妻をめとって、亡くなった者の名を継がせる子供をもうける義務があるとされていました。

 サドカイ派の人々はこの制度を持ちだして、とても奇妙な話を展開します。ある七人兄弟の長男が妻を迎えたものの子供がないままなくなってしまったというのです。そこで、義兄弟婚の制度に従って、弟は兄の後継ぎをもうけるために兄の妻をめとることになるというのです。ところがその弟も子供がないままで亡くなってしまったので、次の弟がその責任を果たすのですが、その弟もまた子供がないままで世を去ってしまったというのです。とうとう七人の兄弟が全員、子供がないままでなくなってしまった場合、復活の時にどうなるのか、というのです。復活が本当にあるとするならば、長男の妻であったこの女は復活の時に一体誰の妻になのか、という難問を持ちだします。

 同じ問題は七人兄弟でなくても、義兄弟婚の制度がある限り、二人の兄弟の間でも起こりうる問題です。サドカイ派の人々は話を複雑にして、復活の教えがどれほど馬鹿げた混乱を引き起こすかということを、自信ありげに説得しようとしたのでした。

 これに対するイエス・キリストの答えはとても明快なものでした。イエス・キリストは二つの点から、彼らの主張の問題点を指摘します。

 その一つは、復活という、来るべき世に属する問題を、この世の基準で考えるという愚かさです。

 「次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。」

 この世では結婚という制度があり、めとったりとついだりするのは当たり前のことです。しかし、その同じ営みを来るべき世にまで持ちこめるのか、というと、イエス・キリストはそうではないとおっしゃるのです。結婚がなくなる一つの理由は「この人たちは、もはや死ぬことがない」と言う理由からです。

 義兄弟婚が前提としているのは、人は死ぬということと、死んだ後にその名を継ぐ者が必要だという前提です。
 しかし、よみがえった後の世界では、死はもはやなく、誰かにその名を継がせる必要もないのですから、結婚という制度そのものが意味を失ってしまうのです。

 もっとも、イエス・キリストのこの議論は、義兄弟婚の制度を持ちだした相手への反論であって、これをもってキリスト教の結婚観であるとすることはもちろんできません。

 イエス・キリストのおっしゃりたいことの第一点は、来るべき世界の出来事をこの世の物差しで測って、復活などありえないと主張することの愚かしさです。

 イエス・キリストが指摘なさった第二の点は、神に対する彼らの理解の乏しさです。

 イエス・キリストは出エジプト記3章の出来事を引用されて、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」と主張されます。

 出エジプト記3章で、神はご自分を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼んでいらっしゃいますが、それは、決してもうずっと昔に死んでしまった者たちの神、という意味でそうおっしゃっているのではないのです。確かに人間は自分のことを「死んだ誰それの友人だ」「亡くなった誰それの親戚だ」と呼ぶことがあります。しかし、神がご自分を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼ぶときには、けっしてそれと同じ意味ではないのです。神は契約の神として、約束した相手にその約束を果たされるお方です。それは相手がなくなっているのに約束を果されるお方なのではなく、約束を果たすために、相手を来るべき約束の御国の中で生かす力を持っていらっしゃるお方なのです。
 神についての理解が足りないところに、復活についての理解も育たないのです。問題は復活が様々な矛盾に満ちているからではなく、神についての信仰が小さくて乏しい所にあるのです。

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