聖書を開こう 2010年6月17日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 神の国と子供(ルカ18:15-17)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 家庭で自分の子供に宗教教育をすべきかどうか、ということに関して、強い反対意見を耳にすることがあります。その反対意見の中心は、まだ宗教のことが分からない子供に、最初から一つの信仰だけを教えるのは間違っているのではないか、というものです。大人になって、いろいろ自分で判断できるようになってから、自分で宗教の必要を感じたとき、自分で宗教を選ぶべきだという考えです。
 この考えは説得力があるように聞こえますが、しかし、一つの重大な誤った前提があるように思います。それは、子供にとって宗教は必要ないという暗黙の前提です。

 たとえば、子供にはまだ自分には何が必要かは判断できないのだから、好きなものを自由に食べさせれば良いと考える親がいるでしょうか。あるいは子供には何が必要な勉強であるか自分で判断できないので、大人になってから自分で必要な勉強をさせた方がためになる、と考える人がいるでしょうか。むしろ逆で、判断できないからこそ、必要な食べ物や知識を親が選んで与えるのです。
 しかし、これが宗教のことになると案外平気でまったく逆のことをしてしまうのです。それは宗教は人間にとって必ずしも必要ではないという暗黙の前提があるからにほかなりません。

 きょう取り上げようとしている聖書の個所には、神の国の祝福に子供を受け入れるイエス・キリストの姿が描かれています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 18章15節〜17節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

 きょうの個所には、イエス・キリストのもとへ連れてこられた乳飲み子達を拒もうとする弟子たちの姿と、この乳飲み子を受け入れようとするイエス・キリストの姿が対照的に描かれています。
 そればかりか、神の国の祝福にあずかろうとする大人たちについて、子供のように神の国を受け入れるのでなければ、決してそこに入ることはできないと教えています。

 まずは、幼子たちを受け入れるイエス・キリストの姿から見てみることにしましょう。

 エルサレムに向かって旅するイエス・キリストのもとへ、小さな乳飲み子までも連れてくる人たちがいました。「触れていただくために」というのは、病気を癒していただくためにというよりは、むしろ、手を置いて祝福していただくためにということでしょう。
 つまり、イエス・キリストのもとに乳飲み子さえも連れてきた人々は、自分たちの子供が神の祝福に与ることを願っていたということです。
 これは何ふり構わない親たちのエゴというよりは、子供を思う親としての自然な感情でしょう。自分の子供が神の恵みのうちにすくすくと成長することは親にとって理屈抜きの願いです。

 幼子であったイエス・キリストの成長を記すルカ福音書の記述には「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた」(ルカ2:40)とあります。同じように少年のイエスが成長する様子を描いて「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」(2:52)と記されています。
 だれでも親であれば、自分の子供が「神の恵みに包まれて」育ち、「神と人から愛され」る人になってほしいと願うのは当然でしょう。
 イエス・キリストのもとへ自分たちの乳飲み子を連れてやってきた人たちの思いは、まさにそのようなことを願ってのことだったと思われます。

 しかし、イエス・キリストの弟子たちには、そのような親たちの気持ちが通じませんでした。「弟子たちは、これを見て叱った」とあります。
 もちろん、弟子たちに親たちの願いが全くわからなかったというのではないでしょう。親たちの願いよりも、エルサレムへ向かうイエス・キリストへの思いの方がまさっていたということでしょう。
 弟子たちにはイエス・キリストがエルサレムへ向かう意味が十分理解できず、またその意味を聞くこともはばかられていましたが(ルカ9:45)、しかし、そのエルサレムで起こる恐ろしい出来事に向かって、自分たちの主が進んで行かれるという事実だけは知っていました。エルサレムまでもうあと少しのところまで近づいている弟子たちにとっては、この様な緊迫した状況の中で、何もわからない乳飲み子たちのためにまで自分たちの先生の時間を奪ってしまうのは、よろしくないと考えたのでしょう。いえ、「よろしくない」というと思うほど穏やかな心中ではなく、「叱った」とありますから、どれほど弟子たちの心の中がピリピリして余裕がなかったかがうかがわれます。

 けれども、エルサレムで起こる苦難を間近に控えながらも、イエス・キリストは子供たちを招き寄せておっしゃいました。

 「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない」

 神の国の祝福から、子供たちを大人の都合や考えで排除してはならないのです。
 イエス・キリストにとっては、たとえ乳飲み子であっても、神の国の祝福を受ける十分な権利と資格があるのです。いえ、そればかりではありません。「神の国はこのような者たちのものである」とさえおっしゃいます。
 今日、子供たちが神の国の祝福から遠ざけられているのは、必ずしも子供たち自身が道を選択しているからとは言えません。むしろ、大人たちが主イエス・キリストのお心を重く考えないで、自分たちの都合や考えを優先させて、子供たちを神の国の祝福から遠ざけているところに問題があるのです。

 さて、イエス・キリストは神の国の祝福にあずかろうとする大人たちに対してもおっしゃいました。

 「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

 「子供のように」とは、この場合、子どものどんな性質のことをおっしゃっているのでしょうか。もちろん、子供といっても千差万別ですから、ひとくくりに「子供のよう」と言えるようなモデルがあるわけではありません。
 子供には物事を複雑に考えることができないという特徴もあるでしょう。できないというのは能力的にできないというよりも、大人の保護のもとにあるという安心感から、ものごとを複雑に考える必要がないということもあるのだと思います。それはまた理屈抜きで親に頼って生きているということにもつながっています。

 イエス・キリストが「子供のように神の国を受け入れるのでなければ」とおっしゃっているのは、このような理屈抜きの、父なる神への信頼のことをおっしゃっているのではないでしょうか。
 親たちに連れてこられた子供たちは、親がなすがままに連れてこられ、イエス・キリストが祝福するがままに、その祝福を受けたのでした。そうした子供たちの態度こそは、神の国を受け入れるわたしたちの態度であるべきなのです。神への理屈抜きの信頼から、神が与えるがままに神の国を受け入れる者こそが、神の国へ入ることができる者なのです。

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