メッセージ: 高ぶりとへりくだり(ルカ18:9-14)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
誇りをもって生きるということは、人が尊厳ある生き方をする上で大切なことです。しかし、誇りはしばしばうぬぼれに変わったり、思いあがりにつながったりしやすいものです。それが高じれば、自分の周りに生きる人々を見下げたり、周りに生きる人々に対する関心さえも失いがちになる危険があります。
きょう取り上げようとしている個所には二人の対照的な人物が登場します。一方は神に退けられ、他方は神に義とされます。この違いはどこから生じるのでしょうか。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 18章9節〜14節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
きょうの個所は、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、人を見下している人々」に対して語られたたとえ話です。たとえ話の登場人物は対照的な二人です。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人でした。その当時の一般的なユダヤ人の目から見れば、ファリサイ派の人たちは宗教的に落ち度のない熱心な人たちでした。それに対して、徴税人には罪人というレッテルが貼られていました。ファリサイ派と徴税人とでは、どちらが神に受け入れられるか、と当時の人々に問えば、十中八九、ファリサイ派の人たちだという答えが返ってくるでしょう。けれども、イエス・キリストがお語りくださったたとえ話の中では、そうではありません。
まず、たとえ話に登場するファリサイ派の人に目を留めてみましょう。先ほども言いましたが、ファリサイ派の人たちはモーセの律法を落ち度のないように守ろうという熱心な人たちでした。その律法に対する熱心な態度はたとえ話の中の祈りの言葉にも表れています。
「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」
「ほかの人たちのように」とか「この徴税人のような者でもない」という言い方には、ファリサイ派のおごりを感じます。けれども、善意に理解すれば、「ファリサイ派」のもともとの意味は「分離」ということですから、他の人たちから分離した熱心な生き方をしているということが言いたいのでしょう。それがファリサイ派としての誇りだと言いたいのでしょう。当然、罪人である徴税人とは違うという自信にもあふれています。
「奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者」というのは、十戒の「盗んではならない」「偽証してはならない」「姦淫してはならない」という言葉に相当するものでしょう。もちろん、この三つだけを守っているというのではなく、十の戒めすべてに落ち度がないとう自信はあったことでしょう。そして、そのように生きることができることを神に感謝しているのですから、表面的には謙遜な思いもあるようにも見えなくはありません。
宗教的な義務についても、週に二度の断食と全収入の十分の一をささげているのですから、ますます、その熱心さがうかがわれます。
ちなみに、モーセの律法では、断食が求められているのは年に一度、贖罪の日の時だけですから、週二度の断食は、求められた以上のことということができます。こうなってくると、謙虚な感謝というよりも、求められた義務以上のことを果たしている自分を、神の誇っているようにも見えます。
しかし、ほんとうにこの人は求められたこと以上のことをしているのでしょうか。「自分は奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者ではない」と言ってますが、それはあくまでも目に見える行いの部分だけです。別の機会にイエス・キリストが語っているように、それらの戒めは「自分を愛するように隣人を愛しなさい」と言う掟に要約されます。大切なのは、隣人を愛することです。
「ほかの人たちのように」とか「この徴税人のような者でもない」という言い方には、そもそもそうした人たちへの愛も関心も感じられません。
確かに奪い取るようなことはしないかもしれませんが、貧しい人たちや弱い立場の人たちにどれほどの関心を示したのだろうか、というと、とてもおぼつかないものです。義務以上のことをしているどころか、律法の本質を理解していないと言わざるを得ません。本当に隣人愛に生きる人であれば「ほかの人たちのように」とか「この徴税人のような者でもない」という言葉を祈りの中で口にしなかったことでしょう。
さて、もう一方の登場人物は徴税人です。徴税人が当時のユダヤ人から罪人扱いされていたのには理由がありました。それは第一に、異邦の皇帝のために税金を集める仕事だったからです。つまり真の王である神への裏切りに加担すると考えられていたのです。第二に、税を徴収する時に、同時に不正な取り立てで私腹を肥やすことができたからです。それはファリサイ派の人の祈りにいう「奪い取る者」にほかなりません。三つ目の理由を挙げるとすれば、通行の要所に構えていた徴税人は、常に異邦人の汚れにさらされていたからです。
それだけの理由をあげられれば、もうこの人が神のみ前に受け入れられないことは火を見るよりも明らかのように思えます。
そのことはこの徴税人にもわかっていました。だからこそ、目を天にも上げようとしないで、ひたすら自分の罪を悔いて、神の憐れみにすがるしかないのです。
イエス・キリストは、この徴税人こそ神に義とされて家に帰ったと語ります。
聖なる正しい神のみ前でわたしたちにできることは、どれだけ自分が律法に対して熱心であるかという報告ではありません。律法を守ることは大切なことであることはいうまでもありません。しかし、律法を落ち度なく守っていると報告できるほど、わたしたちは完ぺきではありません。神と人とをこの上なく愛しているか、と問われればたちどころに不完全な自分が見えてしまいます。まして、そんな不完全な行いをもって自分が救われたなどと考えるのは、高ぶり以外の何物でもありません。
徴税人の祈りはただ、神に赦しを請うものでした。神によって赦される以外に救いの道がないことを知っていたからです。これは旧約聖書にも新約聖書にも共通した考えです。ダビデは詩編の中でこう祈りました。
「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。 打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。」(詩編51:19)
神が罪を赦し、救いの手を差し伸べてくださるからこそ、心を入れ替えて神の御前に正しく生きようとする思いも与えられるのです。
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