聖書を開こう 2010年6月3日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 気を落とさずに祈り続けなさい(ルカ18:1-8)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 イエス・キリストが天にお帰りになるとき、天を見上げて立ちつくす弟子たちに御使いが告げました。

 「なたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」(使徒1:11)。

 それからおよそ二千年が過ぎ、キリスト教会は今もなおキリストの再臨を心待ちにして「マラナ・タ、主よ、来てください」(1コリント16:22、黙示録22:17)と願い続けています。

 もっとも、再臨の主イエス・キリストを待望する信仰は、どの時代も一定していたかというと、必ずしもそうではありません。
 きょう取り上げようとしている個所で、イエス・キリストは「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」(19:9)とおっしゃって、わたしたちが再臨の主を期待して待ち続けているかどうか、問いかけていらっしゃいます。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 18章1節〜8節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」

 きょうの聖書の個所は、「不正な裁判官のたとえ話」として知られる個所です。そのたとえ話を弟子たちにお語りになったのは、18章1節にある通り「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるため」でした。
 ではなぜ、落胆したり失望したりしないように祈ることを教えられたのでしょうか。それは前回学んだ個所の主題と深くかかわっています。
 前回は神の国とキリストの再臨についての教えでした。きょうのたとえ話の結びの言葉も「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」とありますから、今回のたとえ話も前回に引き続いて、キリストの再臨と終末にかかわるたとえ話であるということができます。

 前回学んだ個所では、まずファリサイ派の人々が「神の国はいつ来るのか」とイエス・キリストに問いかけました。それに対するキリストの答えは「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」というものでした。
 つまり、イエス・キリストと共に神の国はすでにわたしたちの間にやってきているということです。
 しかし、その一方で、神の国の完成の時であるキリストの再臨に関しては、弟子たちにこう教えられました。

 「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。」

 つまり、キリストの再臨、最後の審判、神の国の完成という一連の終末的な出来事が起こるのは、今日明日といった具体的な日付を示して言うことができるものではないのです。いえ、キリストがおっしゃる通り、弟子たちが生きている間にはついに見ることはできませんでした。神の国の完成が確実にやってくることはわかっていても、いつそれが起こるかわからないという点では、今のわたしたちが置かれている状況も弟子たちと変わりがありません。

 そのような状況の中で、キリストを信じているという理由で苦しみを受ける日々がいつ終わるともなく続くとすれば、気を落とさずに期待し続けることが、どれほど困難に満ちたものであるかは容易に想像がつくと思います。

 そのような失望や落胆を見越して、主イエス・キリストは弟子たちに気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えられたのです。

 さて、たとえ話の内容は、やもめの訴えを取り上げない、不正な裁判官という設定です。預言者イザヤの言葉に「支配者らは無慈悲で、盗人の仲間となり 皆、賄賂を喜び、贈り物を強要する。 孤児の権利は守られず やもめの訴えは取り上げられない」(イザヤ1:23)とありますから、やもめの訴えが取り上げられないという社会の不正は、誰もが知っていた日常茶飯事ことだったのでしょう。
 しかし、このやもめはそれでも諦めたりはしません。自分の訴えが取り上げられるまで、裁判官のところに通い続けます。とうとうこの裁判官は重い腰を上げて、やっとのことでやもめの訴えを取り上げました。それは正義に目覚めてではなく、ただやもめのしつこさがうるさくてたまらないからでした。

 そこで、イエス・キリストはこのたとえ話から教えを引き出して「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか」と問いかけます。

 もちろん、イエス・キリストは、神がこの不正な裁判官と同じだ、とおっしゃっているのではありません。わたしたちが叫び続ければ、神も重い腰を上げてくださるというのではありません。
 そうではなく、わいろに目がくらむ不正な裁判官でさえ、やもめの訴えに重い腰を上げるのだとすれば、正しい神が訴えをいつまでも放置しておくはずはありません。

 この不正な裁判官はやもめのしつこさに根負けして訴えを取り上げました。しかし、正義の神は根負けして訴えを取り上げるのではなく、訴えそのものが正しいからこそ、速やかに裁いてくださるのです。いえ、そのような正しい正義の神であるからこそ、この神に対して正しい裁きを期待して、諦めずに訴え続けることができるのです。

 主の再臨の時まで、あるいは、この世を去るときまで、クリスチャンはこの世の中に置かれています。この世は必ずしもクリスチャンに対して好意的とは限りません。むしろ、クリスチャンをこの世の罪の生き方に染め戻そうとして、様々な形でクリスチャンの生き方をはばもうとします。
 だからこそ、一生涯神に助けを求めて、日夜神に祈り求め続ける必要があるのです。

 しかし、それでもなお人間の目には、神の裁きの時が遅いと感じ、気を落としてしまうかもしれません。しかし、だからこそ、イエス・キリストは落胆しないようにとこのたとえ話をお語りになっているのです。だからこそ、このたとえ話に耳を傾ける必要があるのです。

 しかも、イエス・キリストは教えを結んで、わたしたちにこう問いかけていらっしゃいます。

 「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」

 神が速やかに裁いてくださらないとすれば、それは神のせいではありません。むしろ、神に裁きを期待する信仰を失ったわたしたちに問題があるのです。そうならないように、イエス・キリストはわたしたちに問いかけていらっしゃるのです。

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