メッセージ: 神が忌み嫌うものとは(ルカ16:14-18)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
信仰生活を送る上で難しいことの一つは、信仰者である自分をどう評価するかということではないかと思います。一方ではいつまでたっても完成しない自分に失望してしまうことがあります。しかし、そんな不完全な自分をも忍耐して受け入れてくださる神の恵みの大きさに触れて、ありのままの自分を受けとめることの大切さを学びます。しかし、それも度が過ぎれば、いつしか自分を肯定することが神の御心であると錯覚して、ありのままの信仰がただのわがままな信仰に陥ってしまいます。
しかし、その反対に信仰者としての少しばかりの成長を過大に評価しすぎて、自分が絶対者であるかのように錯覚してしまうこともあります。そうなってしまうと、自分の足りなさに気がつかなくなるどころか、他人の落ち度には敏感になって、自分のことには気がつかなくなってしまいます。
きょう登場するファリサイ派の人々は自分の落ち度に気がつかない代表例のように登場します。もちろん、この記事を学ぶわたしたちが、彼らを批判するだけに終わってしまったのでは、ファリサイ派の人々と同じ誤りに陥ってしまいます。
きょう学ぶイエス・キリストの言葉をまさにこの自分に対する言葉として耳を傾けたいと思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 16章14節〜18節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。そこで、イエスは言われた。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる。」
きょう取り上げる記事は、先週学んだ「不正な管理人のたとえ話」と来週取り上げる予定の「金持ちとラザロのたとえ話」に挟まれた出来事です。ただ二つのたとえ話の間におかれた出来事というのではなく、不正な管理人のたとえ話を耳にしたファリサイ派の人たちの反応を伝えると同時に、次のたとえ話を語る橋渡しともなっています。
先週取り上げた「不正な管理人のたとえ話」は弟子たちに対して語られたものでした(16:1)。しかし、その話はそばにいたファリサイ派の人々の耳にも入りました。ルカによる福音書の文脈では、15章の場面から聴衆たちは変わっていません。そこにはイエスの話を聞こうとしてやってきた徴税人や罪人、またそれらの人々と食事を共にするイエス・キリストを批判するファリサイ派の人々がおりました。もちろんイエスと行動を共にしている弟子たちもそこにおりました。対象を選んで語るイエス・キリストでしたが、そばにいたファリサイ派の人たちは「不正な管理人のたとえ話」をするキリストの話を聴いて、イエスをあざ笑ったとあります。軽蔑の笑いを禁じえなかったのです。
確かに表面の言葉だけを聞けば「不正にまみれた富で友達を作りなさい」などと語る教えは、バカバカしくて聞いていられないと思ったのでしょう。
しかし、軽蔑の笑いを浮かべるファリサイ派の人々に、イエス・キリストは彼らの問題点を指摘します。
それは自分の正しさを人前で見せびらかす偽善です。その誤りは二重です。その一つは自分で自分が正しいと思う誤りです。もう一つはそれを人にも認めさせようとする誤りです。それで、イエス・キリストはこうおっしゃるのです。
「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。」
大切なのは、わたしたちの心を御存じである神の前に、自分のほんとうの姿を知ることです。神がわたしたちの姿を見る目ほど正しいものはありません。その神の御前で自分自身の姿を反省するならば、見せびらかすような自分の正しさなど持ち合わせてはいないことに気がつくはずです。そのように神の御前で自分自身を見つめることをしないからこそ、人の賞賛がいつしか行動の基準になってしまうのです。
しかし、イエス・キリストはおっしゃいます。
「人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ」
人の心をご存じの神の御前では、人は裸も同然なのです。何一つとして隠し通せるものはありません。
ファリサイ派の人々の問題点のもう一つは、律法と預言者の指示しているものを理解していないという点です。
イエス・キリストはおっしゃいます。
「律法と預言者は、ヨハネの時までである。」
時はまさにキリストによってもたらされた新しい時代の始まりです。「神の国は近づいた、悔い改めて福音を信ぜよ」と宣べ伝えられる時代です。だれもが力ずくで神の国に入ろうとしている時代です。
しかし、そのことは律法が無効なものになったというわけではありません。むしろ、「律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい」といわれるほどです。
律法と預言者はイエス・キリストの到来を指示し、イエス・キリストによって成就するものです。そういう意味で、「律法と預言者は、ヨハネの時まで」のものであると同時に「律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい」のです。
ファリサイ派の人々が、律法と預言者の指し示すものが何であるかを理解していたとするならば、キリストがお語りになった「不正な管理人のたとえ話」を聴いて、決してあざ笑ったりはしなかったでしょう。むしろ、律法と預言者が指し示すお方であるイエス・キリストを心から迎えたはずです。
しかし、それにもかかわらず、ファリサイ派の人々は自分たちこそが律法を正しく理解し、それを行っていると自負する人々です。
イエス・キリストは彼らの律法理解の誤りを具体的な例で指摘します。
「妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる。」
ファリサイ派のある人々は、モーセの律法に記された離婚に関する規定をるゆるやかに理解しました。結局はどんな理由ででも離婚が成り立ってしまい、結婚の意義が見失われる結果を許してしまったのです。
それはほんの一例にしかすぎませんが、律法を正しく理解するどころか、律法を人間の都合に合わせてしまう過ちを犯しているのです。
神の国の到来を前に、自分の身に迫っている危機を必死で回避しようとしたあの不正な管理人をあざ笑う余裕など、私たちにはないのです。
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