聖書を開こう 2010年2月18日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 狭い戸口から(ルカ13:22-30)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「救われるための努力」という言葉を耳にする時、たいていのクリスチャンはその言葉に違和感を感じるかもしれません。なぜなら、救いは恵みとして与えられるのであって、わたしたちが努力して勝ち取れるようなものではないからです。
 確かに聖書が教える救いは神から与えられる値なしの恵みであって、報酬として当然の対価として与えられるものではありません。
 しかし、聖書は同時に、棚から牡丹餅が落ちてくるのを待っているように、何の努力もしないで救いがやってくるのをただ待っていなさい、とも教えてはいなのです。

 きょう取り上げようとしている個所では、イエス・キリストは救いから漏れてしまわないように、注意すべき点をお語りになっています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 13章22節〜30節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」

 きょう取り上げた個所は、町や村をめぐり歩いて教えながら、エルサレムへ向かうイエス・キリストの姿を描くことから始まっています。エルサレムへ向かうイエス・キリストの姿については、すでにルカによる福音書は9章51節で、こう記していました。

 「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」

 きょうの個所はそのエルサレムへ向かう決意を固めて旅立ったイエス・キリストの姿を再び思い起こさせる出だしで始まっています。十字架と復活を目指して、言い換えれば救いのためにこの地上でなすべき業を成し遂げるために、イエス・キリストはエルサレムへ向かって旅を続けていらっしゃったのです。その大きな流れを頭の片隅に置きながら、きょうの個所を読むことが大切です。

 もうひとつ心に留めなければならない前後の流れは、12章、13章と今まで学んできた直近の流れです。そこでは、神の国を求める大切さと、目を覚まして神の国の完成を待ちながら、時を見分けて、真摯に悔い改めることの大切さが教えられました。
 神の国の始まりはからしだ種やパン種のように取るに足らないほど目立たないのです。大きく華々しいものにだけ目を留めるのであれば、神の国の始まりを見落としてしまいます。
 そうしたイエス・キリストの教えともきょうの個所は深くかかわっています。

 さて、きょうの個所はある人が言ったこんな質問が話しの発端になっています。

 「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」

 この人がどういうつもりで、この質問をイエス・キリストに尋ねたのか、理由は明らかではありません。イエス・キリストがこれまでお語りになったことを耳にして、自分は救われないかもしれないと不安を感じたのでしょうか。あるいは、神の国に入る者がごく一部の者に限られているのか、神の御心を尋ねてみたかったのかもしれません。

 イエス・キリストは、しかし、この質問には直接お答えにならないで、こうおっしゃいました。

 「狭い戸口から入るように努めなさい。」

 救われる人が多いか、少ないか、ということを考えるよりもまず、自分自身の救いについて真剣に考えることをイエス・キリストは求めていらっしゃいます。救われる人が多いから、必ずわたしもその中に入っているとは言えないでしょう。逆に救われる人が少ないから、わたしは絶対入れない、とも言えないのです。救われる人が多いか少ないかということを気にする前に、自分自身の問題として、救いのことを考える必要があるのです。
 そこで、イエス・キリストは、「狭い戸口から入るように努めなさい」と勧めます。
 時を見分けずに、真剣に悔い改めようとしない生き方は、狭い戸口から入ろうとする生き方とは正反対な生き方です。自分は大丈夫と思うその心が、すでに危険なのです。

 「狭い戸口から入る」とは、言いかえれば、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と呼びかけるイエス・キリストの言葉に真剣に耳を傾けて、呼びかけに応答することにほかなりません。

 イエス・キリストは「言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」と厳しいことをおっしゃいます。狭い戸口は、入ろうとしても入ることができないほど競争率が高いということでしょうか。そうではありまません。
 「入ろうとしても」というのは「狭い戸口から入ろうとしても」と言う意味ではありません。そうではなく、神の国に入ろうとしても、狭い戸口から入ろうとしないために多くの人が、神の国に入れないのです。

 人々が狭い戸口から入ろうとしないのは、言いかえれば、イエス・キリストの呼びかけに応えようとしないのは、神の国の戸口がいつまでも開いているという誤解があるからです。いえ、それよりも前に、もうすでに自分は戸口の内側にいて安全だという誤解があるからです。

 戸口が閉じられたとき、初めて外にいる自分に気がついたのでは遅いのです。戸口は閉じられるときが必ず来るのです。そうであればこそ、時を見分けるように、目を覚ましていなさいとイエス・キリストは呼びかけてきたのです。

 しかも、狭い戸口から入ろうとしない人に限って、もう一つの誤解が間違った安心感を生み出しているのです。その誤解は、次の言葉に表れています。
 
「御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです」

 イエス・キリストを知っている、イエス・キリストの教えを聴いたことがある、というだけでは救いの保証にはならないのです。イエス・キリストが求めていらっしゃることは、キリストの呼びかけに応答して、真摯に悔い改めて、自分をキリストに明け渡すことです。

 その者だけが、キリストを通して神の国の宴会にあずかることができるのです。

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