秋も深まってきました。おちついた秋色のブラウスを着て、お気に入りの本を手にすると「灯火親しむ読書の秋」もいよいよ本格的に…という気分になりますね。あなたの秋はいかがでしょうか?
さて、あなたはストリーテラーの昔話を聴いたことがありますか?紙芝居や絵本の読み語りとは違うスタイルでお話しするのですが、私は以前小学校で子供と一緒に聴きました。語り手は100人ほどの子供たちを3グループに分けて、それぞれ興味深いお話を用意してくださいました。短いお話や長いお話、なんとシンプルな世界でしょう。「声」だけなのですから。私も一緒に楽しみながら物語の世界を旅しました。語り手の心の中に昔話はしっかり大切に入っていますから安心して聴くことができました(ちょうど絵本の「フレデリック」(エリック・カール)ちょっと変わったのねずみのお話のように。子供の心がお話によって温かくなるのです)。
終えてから「話すこと・語ること」をテーマに親たちとの懇談会があり、その中で「語りの素晴らしさ、それは子供が魂の深いところで語る人の言葉を受け取ること。そこに心と心の交流がある」とお話があり私の心が動きました。「それなら毎週の日曜学校で子供たちに語る聖書のお話はどうなっている?いったいどのようにすれば私の魂の奥底にある大事なことを丁寧に語れるのだろうか?」その時、「大きなものを細かく砕くように言葉で聴き手の魂に衝撃を与える」ということもお話くださったのです。
「言葉で衝撃を与える」なんとも迫力あるお勧めです。子供はとても正直ですね。お話に集中してくれば自然と静かになりますし、つぶらな目が語り手をじっと見つめます。すると語る側もその子供の姿によって励まされ嬉しくなります。そこに生きた対話が起こり、語る側の確信は強められていきます。でも昔話と聖書のお話には大きな違いがあります。昔話も困難を乗り切っていく主人公のお話を聴きながら、子供たちが自分の人生に起こる困難も勇気をもって乗り切っていこうととする力を与えるのなら、聖書はそれをはるかに超える迫力で子供たちに迫っていくものでしょう。
聖書のみ言葉の力が語る側にも子供の魂にも衝撃を与えるということを私自身は実感しています。2年前位のある日曜日、私は、人間の罪について語っていました時、自分自身の姿があらわになり罪の悲しみが襲ってきました。聖書のみ言葉が迫り胸がいっぱいになってしまってしばらく声が出なかったのです。聖なる沈黙でした。そして、聖書のみ言葉と共に聖霊なる神様が子供にも私にも働かれました。その日の出来事はずっと私の心の中に刻まれています。
ウエストミンスター信仰告白には、「…神のことを理解するために、彼らの心を霊的に、救じょう的に照らすことにより、また、彼らの石の心を取り去って、肉の心を与えることにより、彼らの意思を新たにし、その全能の力によって、善に向かって決断させることにより、また彼らをイエス・キリストへと有効に引き寄せることによってである。しかも、彼らは神の恵みによって自発的にされて、最も自由にくるのである。」(第10章 有効召命について)。とあります。救われる魂への衝撃は人間の知恵や力で与えられるものではなく、神様のみ言葉とみたま(聖霊)によると聖書は伝えています。
礼拝は大人にとっても子供にとっても世の中のどこにもない聖なる時間。大人にも子供にも語る者を用いて魂への衝撃を与えられるのは神様ご自身ですね。 くまだなみこ