おはようございます。山下正雄です。
クリスマスのこの時期、商店街ではどこからともなくクリスマスソングが聞こえてきます。「きよしこのよる」や「もろびとこぞりて」は、誰でもが一度は耳にしたことがあるクリスマスの有名な讃美歌です。その「もろびとこぞりて」の歌詞に「悪魔のひとやをうちくだきて、とりこをはなつと主は来ませり」とあります。悪魔の牢獄に捕われた人々を解放するために、主がやって来られたというのです。
「悪魔の牢獄」という言葉を聞くと、おどろおどろしい感じがするかもしれません。「牢獄」という言葉だけでも十分陰惨な感じを受けるのに、そこへ「悪魔の」という言葉が加われば、まるで地獄の世界のようなイメージを思い浮かべるかもしれません。そこから逃れ出ようとする人間を、ありとあらゆる手段で妨げる、そんな恐ろしいイメージです。しかし、そこまでイメージが膨らむと、返って逆に、この歌詞がもつ現実的な意味を見失ってしまうかもしれません。
「悪魔の牢獄」がほんとうに恐ろしいのは、その悲惨さがそれとはすぐに分からないところにあります。牢獄につながれているのに、自分は自由だと思い、人を傷つけているのに、そうとは自覚できない、魂の愚鈍さとでも表現したらよいかもしれません。神が求める正しさ、清さに対して無感覚になっても、それでも平気でいられる無頓着な状態です。しかし、それでいて、自分が傷つくときには怒りをあらわにして、決して他人を赦すことができない状態です。
ついには互いに傷つけあうだけで、その苦しみの連鎖から自分の力ではどうにも逃れることができない牢獄です。聖書の言葉でいえば、それは「罪の奴隷」と言うことです(ローマ6:16-22)。
新約聖書マタイによる福音書の初めに、イエス・キリストの誕生にかかわる話が記されています。その記事の中に、生まれてくる子供の名を「イエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」と語る天使の言葉があります。
「イエス」とはヘブライ語で「主は救いである」という意味の言葉です。生まれて来る子が、罪からの救いを実現する救い主であるという意味を込めて、イエスと呼ばれているのです。
ちなみに新約聖書では、イエスを「救い主」という呼び名で呼ぶ個所は思ったほどたくさんはありません。それもそのはずです。なぜなら、「イエス」という名前がすでに、イエスが救いをもたらす者であることを含んでいるからです。
そして、その場合の救い主とは、聖書にある通り「罪からの」救い主です。
人は様々な救いを夢見るものです。正義の実現、差別の撤廃、貧富の差の克服、どれも解決しなければならない重要な問題です。しかしまた、それ自体が罪であるとしか思えないような自己中心的な幸福を「救い」と履き違えて求めるのも人間です。確かにそれもその人にとっては救いであることに違いありません。
しかし、様々な形の救いがあるように見えて、しかし、その根底にあるものは結局は人間の根深い罪の問題です。
イエス・キリストが来られたのは、罪の縄目からわたしたちを解放するためです。聖書は言います。
「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。」(1テモテ1:15)