おはようございます。清和学園の藤井真です。今朝は、祈ることと叶えられることについて少しお話いたします。
私たちはよく苦しい時の神頼みをします。仕事や生活上のこと、また、受験の合格祈願であったり、その他さまざまです。私たちは何かをしたい、達成させたい、欲しいなど、人間のある意味で自然な欲求から神頼みをするのだと思います。キリスト教で「祈る」ということは、全てをご存知の神様に感謝し、願い、求め、また赦しを請うことだと思います。
ある日曜日の礼拝に、牧師先生が次のような例を話してくださいました。それは、ニューヨーク大学のリハビリテーション研究所の壁に、一人の患者の残した詩があるということです。日本語に訳してみますと次のようになります。
大きなことを成し遂げるために力を与えて欲しいと神に求めたのに、
謙遜を学ぶようにと、弱さを授かった。
より偉大なことが出来るように 健康を求めたのに、
より良きことが出来るようにと、病弱を与えられた。
幸せになろうとして 富を求めたのに、
賢明であるようにと、貧困を授かった。
世の人々の賞賛を得ようとして 成功を求めたのに、
得意にならないようにと 失敗を授かった。
人生を享楽しようと あらゆるものを求めたのに、
あらゆることを喜べるようにと、命を授かった。
求めたものはひとつとして与えられなかったが
願いはすべて聞き届けられた。
神の意に添わぬものであるにもかかわらず
心の中の言い表せないものはすべて叶えられた。
私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ。
これはアメリカのセントルイスという町のイエズス会修道院に原文があるのだそうですが、神父様でJ・ロジャー・ルーシーという方が書かれたものです。長い入院生活の中で生きるか死ぬかという時もあったのかも知れません。自分の欲したことが成し遂げられず苦しみ、その苦しみの挙句の果てに到達した境地でこの詩を書かれたのだと思います。やがて60歳になろうとしている自分の人生を振り返ってみますと、たくさんの恵まれたものを与えられてきました。本当に沢山です。しかしそれにもまして、多くの失敗を重ねて現在に至っています。そのときは良いことと信じ突き進んでいたつもりが、独りよがりでどうにもならなかったり、また、本当に大切なことを見失っていたりしました。
先ほどの詩のように、人が願い、求め、欲することとは180度違った結果が人生において出ても、自分が心の中で言い表せないところのことまで聞き届け、全て叶えてくださる神様に信頼を置きお任せすれば、豊かな人生と心の平安を与えられると確信しています。そして、そのことは決してクリスチャンだけのものではなく、全ての人に神様は惜しみなく与えてくださっていると思います。