おはようございます。山下正雄です。
聖書の話を聴いていて、「父なる神」や「御子イエス・キリスト」については、比較的イメージしやすいのに対して、「聖霊」という言葉は、何か漠然としてイメージしにくい言葉ではないかと思います。
もちろん、その理由の一つには、「神」や「キリスト」には「父」や「子」という具体的なイメージを表す言葉がつけられているということがあるでしょう。それに対して、「聖霊」にはそのような具体的なイメージにつながる言葉がついていません。いえ、聖書の中では「聖霊」という表現の他に、単に「霊」とか「御霊」と呼ばれる場合もあるのですから、「聖なる」霊、「聖霊」というのは、それだけでイメージできる言い方なのかもしれません。
なるほど「聖なる」という言葉がもつイメージは誰でも描けるとしても、問題は「霊」という言葉の馴染みのなさにあるのでしょう。その言葉は「霊魂」や「精神」や、「幽霊」や「亡霊」、果てはわけのわからないスピリチュアルな存在にまでイメージが膨らんでしまうからです。
聖書が父なる神と子なる神と並んで聖霊について語っているとき、そこでいう「聖なる霊」とは神である「聖霊」にほかなりません。
キリスト教会が昔の時代から簡潔な信仰告白として告白し続けてきた使徒信条は、唯一まことの神を、父、子、聖霊の、三つにして一人の神、三位一体の神として、それぞれについて語っているのです。そのように、父なる神、子なる神と同じように「聖霊なる神」としてこの個所を理解しないならば、「我は聖霊を信ず」という部分だけが宙に浮いてしまうのです。
「聖霊」について、そのイメージが漠然としてしまうもう一つの理由は、使徒信条の中では、たったの一言「我は聖霊を信ず」としか書かれてはいないからだと思います。父なる神が、全能者、父、天地の造り主と呼ばれ、イエス・キリストが誕生から十字架での死と復活、昇天と着座、第二の来臨に至るまで詳しく記されているのに対して、聖霊については、たったの一言「我は聖霊を信ず」とだけしかありません。
けれども、それは使徒信条全体の読み方の問題であるともいえます。
確かに「聖霊」については「我は聖霊を信ず」とだけしか記していないように思えます。しかし、それに続いて記される「聖なる公同の教会」や「聖徒の交わり」も実は「聖霊」の働きと密接なかかわりがあるのです。
聖霊は人々を生まれ変わらせ、キリストへの信仰を抱かせ、キリストが勝ち取った救いの恵みを受けとらせ、神の国の民として教会の交わりに入れ、生涯にわたって信じる者を導くのです。
つまり、聖霊はわたしたちの中に住まわれ、わたしたちを動かすお方なのです。しかも、そのことに信じるわたしたちが、しばしば気がつかないでいることさえあると言うことです。
使徒パウロは「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」とさえ語っています(1コリント12:3)。わたし自身がなした信じるという決断も、わたしの力がした決断であるように思えて、しかし、聖霊がそのように働きかけてくださっているのです。
同じように使徒パウロは聖書の中でこう語っています。
「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」(ローマ8:14-17)