おはようございます。山下正雄です。
古代のキリスト教会が、聖書から信じるべき事柄を簡潔にまとめあげたものに、使徒信条と呼ばれる信仰告白の言葉があります。その信仰告白の大きなまとまりの二番目は、神の子イエス・キリストについて信じるべき事柄を扱っています。その生涯を受胎、誕生、受難、十字架、死と葬り、復活と描いて、そのあと神の子キリストが天に昇られたことが続きます。
聖書に書き記された出来事そのもののことを言えば、キリストの昇天については使徒言行録の1章に最も詳しく記されています。最も詳しくとは言いましたが、その描き方は、何が起こったのかを読んだ誰もが理解できる表現とは言い難いかもしれません。
確かに使徒言行録には、弟子たちが見たとおりのことが描かれているといえばその通りです。そこには、こう記されています。
「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。」
「天」という言葉を「空」と置き換えてみれば、出来事の様子が具体的にイメージできます。しかし、イエス・キリストは空高く昇って行き、雲の上の世界に留まったということなのでしょうか。そうではありません。
聖書がいう「天」という言葉は、単に空高い場所という意味ではありません。そこは神のいます場所であり、物理的にこことかそことかを特定することができない、霊的な場所です。いえ、場所とか空間という言葉では言い表すことすら不可能な世界です。
ヨハネによる福音書は1章で「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。」(1:1-2)と語り、言であるキリストが初めから父である神と共にいたことを示しています。そして、初めから神と共にあった言であるキリストが「肉となって、わたしたちの間に宿られた」(1:14)と語ります。これを天からの下降とするならば、キリストの昇天は、再び父なる神のもとへと帰ること、帰還することと言い表すことができます。キリストは初めての場所に向かうのではなく、元いた場所に帰還されるのです。
しかし、それは行き場を失って出戻るのではなく、なすべき救いの御業を終えて、天に勝利の凱旋をなさるのです。
もっとも、聖書がキリストの昇天を語るのは、どこからどこへという場所の問題ばかりではありません。むしろその出来事が意味する事柄こそ大切です。
同じヨハネによる福音書には「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(14:2)とおっしゃって、キリストが父のみもとにお帰りになる意味が語られています。
あるいは、キリストが父なる神のもとにお帰りになることで、弁護者である聖霊が遣わされるとも語っています(ヨハネ14:16)。
イエス・キリストは「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」とおっしゃいました(使徒1:8)。キリストが天にお帰りになることで、聖霊が降り、聖霊が降ることで弟子たちはキリストの救いの証人として、キリストの救いの業を世界にあまねく伝える者とされるのです。
そして何よりも天にいますキリストを私たちが見上げることで、地上に心をひかれることなく、私たちのために開かれている天の門に思いをはせることができるのです。