おはようございます。私は香美市土佐山田にある改革派山田教会の会員、泥谷逸郎と申します。
イエス・キリストによって立てられた証人として、キリストが生きておられることを証ししたいと思います。イエス・キリストは神の御子であられ、神さまであられますが、約二千年前の昔、マリアの子としてこの世に遣わされて来ました。こうして神であられるお方が一時的にしろ、人となられたのです。キリストの身体である教会は、人として誕生されたこの日を、クリスマスとして記念してまいりました。毎年、クリスマスがお祝いされている歴史は、たいへん大事なことを証ししています。それは、キリストは本当に人となっておいでくださったということです。神であられるお方が、どうして人となって来られたのでしょうか。それは、人が神さまに対して罪を犯したからです。罪を犯した人間は、神さまの厳しい罰を受ける者になってしまいました。その証拠が死です。この死は、身体と精神の死だけではありませんでした。身体の死と共に、すべてのことが帳消しになるのではありません。罪に留まったままで死ねば、霊魂とやがて甦らされる身体とは、永遠の裁きと滅びに入れらます。それは、尽きることの無い、「硫黄の燃えている火の池に投げ込まれる」(黙示録19:20)ということです。
私たちがこのような恐ろしい裁きと滅びに遭わないために、すなわち救い出すためにイエス・キリストは遣わされて来たのです。イエス・キリストが、私たちに代わってこの恐ろしい裁きと滅びを受けてくださいました。それが、あの酷たらしい十字架です。自分の罪を認め、神さまに私の罪をお赦しくださいと求めさえすれば、あなたは救われます。
この救いも、イエス・キリストが死んで終わりになってしまったのでは、空約束になってしまいます。神さまは、イエス・キリストの贖いによる救いが決して嘘でない証拠を私たちに与えてくださっています。それが、死人の中からのキリストの復活です。甦りです。キリストは、十字架の苦しみを受けられて後、「御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって、当時の信者たちにお示しになりました。キリストが復活された日には、弟子たちはキリストと同罪だということで殺されるかも知らないという恐怖におびえながら、ある部屋に閉じこもっていました。そこへ甦られたキリストが現れらました。驚き疑っていた弟子たちに、十字架に釘付けされていた両手の傷跡とローマの兵士がキリストの死を確かめるために刺した脇腹の槍の傷跡をお見せになりました。弟子たちは、「喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっていたので、『何か食べる物はあるか』と言われました。そこで、弟子たちが「焼いた魚を一切れ差し出すと、それを取って彼らの前で食べられ」ました。聖書の他の箇所によると、五百人以上の弟子たちに同時に現れることもありました。このように、「御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって弟子たちに」お示しになりました。
今日の私たちには、これらのことを記録している聖書が証拠です。キリスト教は、確かな証拠のある宗教です。こうして、復活されたイエス・キリストは、四十日にわたって弟子たちに姿を現されました。そして、救いの福音を教えられました。それから四十日目に、十一名の弟子たちを祝福しながら復活されたお姿のままで、天に昇って行かれました。呆気にとられて天を見上げている弟子たちに、白く輝く衣を着た二人の天使たちが現れてこう言いました。「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのを見たのと同じ有様で、またおいでになる」と。キリストは、今も復活されたお体をもって天で生きておられます。そして、終わりの日に、審判者として再び来られます。聖書はそのことの証人です。