タイトル: 主が花婿、救われる者が花嫁とは? 兵庫県 K・Yさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は兵庫県にお住まいのK・Yさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「主が花婿、救われる者が花嫁とは、どんなことですか? BOX190でよろしくお願いします」
K・Yさん、いつも番組を聴いてくださってありがとうございます。とても短いご質問ですが、聖書の中に出てくる「花婿・花嫁」の比喩的な意味について、改めて考えをまとめる機会となりました。ありがとうございます。
さっそく、聖書の中に出てくる「花婿・花婿」がどんな意味を持っているのか、ご一緒に見ていきたいと思います。もちろん、きょう扱おうとしているのは文字通りの「花婿・花嫁」ではなくて、ご質問の中に出てきましたように、主イエス・キリストを「花婿」とし、キリストを信じて救われる者を「花嫁」として描く、比ゆ的、象徴的な意味での「花婿・花嫁」の話です。
さて、今、さらっと「キリストを花婿、信仰者を花嫁」と言ってしまいましたが、聖書のどこにそんなことが書いてあるのでしょうか。まずはその点から見ていきたいと思います。
まずはキリストを「花婿」と表現する個所です。こちらの方は比較的簡単に見つけ出すことができると思います。何よりもイエス・キリストご自身がご自分を「花婿」と呼んでいます。
マルコによる福音書2章18節以下で、あるとき人々がイエスのところにやって来てこう尋ねました。
「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」
それに対して、イエス・キリストは「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない」とお答えになりました。
この言葉の中で、ご自分を花婿に例え、弟子たちを婚礼の客に例えて、弟子たちが断食しないのは、花婿であるキリストが一緒にいる喜びの時だからだ、とお答えになったのです。
ここでは確かにキリストはご自分を指して花婿と呼んでいます。しかし、その相手である花嫁とは誰なのでしょうか。ここには記されていません。
続いてマタイによる福音書25章1節以下には花婿を迎えに出ていく介添え人のおとめたちの話が出ています。このたとえ話の中に出てくる花婿がキリストであるとはどこにも書いてありません。しかし、世の終わりの時に再びやってくるキリストを指していることは、マタイによる福音書の話の流れから想像がつくと思います。
けれども、この花婿の相手である花嫁は誰なのでしょうか。たとえ話の中には「花嫁」という言葉は登場しません。話題は賢いおとめと愚かなおとめに集中しています。もちろんこのおとめ達は花嫁ではありません。
さて、洗礼者ヨハネも、自分が待望のキリストではないことを示すために、こんなことを言いました。
「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。」(ヨハネ3:29)
ここでヨハネは、自分が花嫁を迎える花婿ではなく、介添え人の一人に過ぎないと主張しいます。そればかりか、今は花婿であるキリストの声を聴いて、喜びに満たされているとさえ証ししています。
ここでも、キリストは花婿に例えられていますが、しかし、花嫁が誰であるのかについては、何も書かれていません。
ヨハネの黙示録にも花婿としてのキリストが登場します。19章7節9節です。
「わたしたちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、花嫁は用意を整えた。花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、聖なる者たちの正しい行いである。」
ここには「花婿」という言葉は出てきませんが、「小羊の婚礼」とあるように、それはキリストの婚礼であることは、黙示録全体から疑いようがありません。したがって、この場合、キリストご自身がこの婚礼の主役である花婿であることは間違いありません。
ただ、ここでも花嫁が誰であるのかは伏せられたままです。
もう少しだけ先を読むと、わくわくする場目が描かれます。黙示録21章9節です。
「さて、最後の七つの災いの満ちた七つの鉢を持つ七人の天使がいたが、その中の一人が来て、わたしに語りかけてこう言った。『ここへ来なさい。小羊の妻である花嫁を見せてあげよう。』」
こうして見せられた花嫁は「聖なる都エルサレム」でした。
はてさて、期待に反して、ここにはクリスチャンが「花嫁」だとは書いてありません。それとも、天から下って来る新しいエルサレムとはクリスチャンのことでしょうか。そうではないでしょう。なぜなら、この新しい都エルサレムには「小羊の命の書に名が書いてある者だけが入れる」(黙示録21:27)とあるからです。あくまでも信仰者は都に入る人であって、都それ自体ではありません。
そうすると、「信仰者はキリストの花嫁である」という表現はいったいどこから生まれてきたのでしょうか。
このことについては、旧約聖書をひも解く必要があります。
旧約聖書に主なる神を夫、神の民であるイスラエルを妻に例える伝統がありました。例えば、エレミヤはこう言いました。
「主はこう言われる。 わたしは、あなたの若いときの真心 花嫁のときの愛 種蒔かれぬ地、荒れ野での従順を思い起こす。」(エレミヤ2:2)
まるで、夫が妻に新婚時代の愛を思い起こさせるような表現です。
同じように預言者イザヤはこう預言しました。
「若者がおとめをめとるように あなたを再建される方があなたをめとり 花婿が花嫁を喜びとするように あなたの神はあなたを喜びとされる。」(イザヤ62:5)
主に対して罪を犯したイスラエルを再び花嫁として迎えるように、主はイスラエルに救いをもたらせてくださるという預言です。
これらの預言の言葉では「主」が花婿であるのに対して、神の民であるイスラエルは「花嫁」です。
それと同じように、新約の時代にはキリストが花婿、そして、キリストを信じる者の群れである教会が花嫁と呼ばれているのです。
パウロはエフェソの信徒への手紙5章25節でこう記しています。
「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」
この言葉は夫への勧めの言葉ですが、しかし、ここにはキリストと信仰者の集まりである教会との関係が同時に描かれているのです。
わたしたちはキリストの花嫁として、自分を愛してくださったキリストに対して、従順であることが求められているのです。
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