BOX190 2010年12月1日(水)放送    BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: なぜ聖書の神は父なる神? 千葉県 ハンドルネーム・りんごさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は千葉県にお住まいのハンドルネーム・りんごさんからのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生、こんにちは。ときどき番組をネットでまとめてチェックしています。
 さて、さっそく質問なのですが、聖書では神様を『父なる神』と表現していますが、どうして『父』なのでしょうか。『母なる神』では何か不都合があるのでしょうか。あるいは、父とか母とか言わないで、単に『親なる神』と言ってはいけないのでしょうか。
 あるいはどうしても家族関係の用語を使わないといけないのでしょうか。単に『造り主なる神』『主なる神』だけでもよさそうな気がしますが、そのあたりのことを教えていただければ嬉しく思います。」

 りんごさん、お便りありがとうございました。わたし自身がそんなことを考えたこともありませんでしたので、改めて尋ねられると、答えに詰まってしまいます。
 答えになっていませんが、聖書にそう書いてあるので、「なぜ」と考えるよりも、そう受け入れていただくしかありません。聖書に限らず、すべての「なぜ?」という疑問に答えがあるとは限りません。いえ、答えはあるのかもしれませんが、人間がその答えを見出すことができない疑問というのはたくさんあると思います。

 しかし、これではせっかくのご質問が期待外れになってしまいますので、私流の答えを述べさせていただきたいと思います。

 まず、ご質問の後半部分から取り上げてみたいと思います。こちらの方が比較的答えが出しやすそうです。

 なるほど、どうしても家族関係の用語を使わなくてもよさそうな気もします。実際、聖書には「天地の造り主」とか「主なる神」という用語がありますから、あえて人間的は家族関係の用語を使う必要もないような気がします。

 この点に関していえば、「神」という一言が、誰にとっても同じイメージであるならば、「天地の造り主」という言い方も、「主なる神」という言い方も、あるいは「義なる神」「聖なる神」という言い方でさえ不要のものだと思います。しかし、神は決して一言で言い表すことができないお方です。
 そもそも神が人間にご自身をお示しになるときには、決して抽象的な概念としてだけご自分を表現されることはありません。具体的な創造と救いの歴史の中でご自分を豊かにお示しになっています。この神の豊かさはとても一つの呼び方だけで表現しつくすことはできないのです。
 そういう意味で神をどう呼ぶのか、その数の分だけ、そこに神を豊かに知る手掛かりがあると言ってもよいのだと思います。
 もちろん、聖書の世界は、呼び方の数分だけ神様の数が増える多神教の世界とは異なりますから、呼び方がたくさんあったとしても、それで問題が起こることはありません。

 では、どうして、そこには家族関係の用語を持ち込む必要があるのでしょうか。家族関係以外の用語でも十分ではないか、と思われるかもしれません。
 しかし、これもちょっと考えて見れば、すぐに納得できる答えが見つかると思います。

 そもそも、父とか母、という言葉は関係性を表す言葉です。特にそれは血縁関係のある者同士の関係を言い表しています。関係性を表す言葉は他にもたくさんあります。
 たとえば、モノとそれを作った人との関係で言えば、作った人は「製造者」です。モノとそれを売る人との関係で言えば、売る人は「販売者」です。
 しかし、神様のことを「製造者」とか「販売者」と呼ぶのは、どう考えても受け入れがたい呼び名です。そもそも、私たち人間なはモノではないからです。

 あるいは「王と臣民」「主人と奴隷」「雇用主と雇用者」という言葉も関係性を表す言葉です。もちろん、神が「主」と呼ばれるのは、神に対して私たちが服従すべき上下関係にあるからです。あるいは治め支配する関係で神を呼ぶときには「王なる神」という呼び名もあります。
 しかし、神と人間との関係を「主」や「王」だけでは表現し尽くすことはできません。そうであればこそ、もっと親しい関係を表わす家族関係を表現する用語が使われるようになったのだと思います。
 その場合、血族関係表す言葉なら何でも使えるかといえばそうではありません。「叔父なる神」や「姉なる神」というのでは、自分との関係が直接的ではありません。使うとすれば「父なる神」か「母なる神」か、そのどちらかしか考えられません。

 では、なぜ「母なる神」という言い方が、聖書では使われないのでしょうか。二つほど理由が考えられます。

 一つは、母親と子供の関係は、出産という非常に具体的なイメージが伴っています。これは聖書が教えている創造者としての神のイメージとは相いれません。神は人を創造したのであって、産んだのではありません。

 もう一つ考えられる理由は、「母なる神」のイメージは先ほど触れたとおり、出産のイメージと結びついていて、それが豊かに実りをもたらす豊穣や多産のイメージと簡単に結びついてしまいます。そして、そのイメージから様々な人間的なお祭りが生まれてくる危険があるからです。

 しかし、神が「父なる神」と呼ばれるのは、決して消去法で残った方を使っているという消極的な理由からではありません。

 父親が家長として家族に対して持っている責任や、大きな権限というイメージから考えると、おのずと「母」ではなく「父」と呼ばれる理由は明らかであると思います。
 もちろん、それは古代の社会を背景にした表現ですから、男女平等の世界に生きる私たちが描く父親像とは違っているかもしれません。

 ところで、新約聖書では、同じ「父なる神」という言葉が使われているにしても、その意味するところは違います。なによりも、父なる神は「イエス・キリストの父なる神」です(2コリント1:3、コロサイ1:3、マタイ11:27参照)。第一義的には人間の父なのではなく、イエス・キリストの父なのです。神の子であるイエス・キリストとの特別な関係の中で、神はイエス・キリストの父なる神です。これが第一の意味です。そういう意味での「父なる神」は、ただイエス・キリストだけが使うことのできる言葉です。

 しかし、神はイエス・キリストを通してわたしたちを神の子として迎え入れてくださり(ガラテヤ3:26)、わたしたちに「アッバ父よ」(ローマ8:15)と呼びかけることをよしとしてくださっているのです。そういう意味で、主の祈りの中で、わたしたちは神を「天にまします我らの父よ」と呼びかけることができるのです。

 最後に、聖書の中では神は決して「母」のイメージで描かれることがないのか、というとそうではありません。たとえば、イザヤ書49章15節には「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。 母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。 たとえ、女たちが忘れようとも わたしがあなたを忘れることは決してない」とあります。
 しかし、それでも、圧倒的に多いのは父親としての側面で、神が描かれることです。

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