タイトル: キリストの十字架の意味 茨城県 ハンドルネーム・チャボさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は茨城県にお住まいのハンドルネーム・チャボさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生、いつも質問についてお答えくださりありがとうございます。放送は毎週テープに取って車の中で聞いています。今では、自分の信仰にとって欠かせない番組になっています。
ところで、前から疑問に思っていることが一つあります。それは、キリストの十字架のことです。クリスチャンにとってキリストの十字架は、神の子の贖罪の業でありこれによって罪の赦しが与えられたことは理解しており、また、信じています。しかし、このことは十字架の死についての二面ある解釈の一面であることも事実だと思います。イエスが十字架刑になった時に、また、そういう方向に事態が動いていたときに『贖罪の業がなされつつある』としてこのことを見ていた人は一人もいなかったはずです。そして、イエスは『神によって罰せられた』と信じていますが、実際は人間によってその『ねたみ』によって殺されたことも事実だと思います。このことを、どのように理解したらいいのでしょうか。よろしくお願いします。」
チャボさん、番組をいつも丁寧に聴いてくださってありがとうございます。聴いてくださるリスナーの方々がいてくださるからこそ、番組を続けることができるのですから、こちらこそ、感謝の気持ちでいっぱいです。
さて、今回のご質問は、なかなか深い問題だと思いました。ご質問を読ませていただいて、わたしの頭には三つの聖書の個所が思い浮かびました。
真っ先に思い浮かんだ聖書の言葉は、イザヤ書の55章8節以下の言葉です。
「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり わたしの道はあなたたちの道と異なると 主は言われる。天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道を わたしの思いは あなたたちの思いを、高く超えている。」
人間というのは様々な現象や出来事を解釈して、その現象や出来事に意味を与えようとします。人間が物事を理解するというプロセスはまさにそういうことであると思います。
しかし、神の御心を知るということは、このプロセスだけでは到達することができない部分があるということです。なぜなら、神の思いは人間の思いとは異なっていて、人間の思いをはるかに超越しているからです。目の前で起こっていることの意味を人間はあれこれと解釈することはできますが、しかし、神のご意思をそこから正確に読み取ることは、神の思いはわたしたちの思いをはるかに超えているために、できないことなのです。
言い換えれば、神が出来事の意味を解説してくださってこそ、その出来事に表れた神のご意思を知ることができるのです。
そういう意味では、キリストの十字架の死がもつ意味は人間の側の解釈ではなく、まさにわたしたちの思いを遥かに超えた神の御心なのですから、神の解説があって初めて理解できるところなのです。
二つ目に頭に思い浮かんだ聖書の個所は、同じイザヤ書の、有名な「苦難の僕」にかかわる預言の言葉です。イザヤ書53章3節のおしまいから4節にはこう記されています。
「わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ」
人間的な目で見るときに、苦難の僕が苦しみに遭っているのは、まさに、自分の罪のゆえに神に打たれているとしか映らない、というのです。だから、苦難の僕を軽蔑し、無視するに十分な理由があると、人間は思うのです。しかし、神の御計画は人間の思いとは異なっており、苦難の僕の苦しみは、実はわたしたち人間の病、わたしたちが負うべき痛みに他ならないというのです。
キリスト教会ではこの苦難の僕こそ、後のイエス・キリストの姿であると解釈しています。そのことはさておくとしても、ここでも、人間の解釈と神の思いは異なっています。
三つ目に思い浮かんだ聖書の個所は、創世記に登場するヨセフの話です。ご存じだと思いますが、ヨセフは兄たちの妬みによって、エジプトに売り飛ばされてしまいます。しかし、そのことを通して、ヨセフは後にエジプトでの活躍の機会を与えられ、ひいては父や兄弟たちを飢饉から助け出す結果になります。このことを聖書はヨセフの口を通して、こう語っています。創世記45章4節以下です。
「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。」
確かに、ヨセフがエジプトに売られたのは兄たちの悪巧みの結果です。ですから、兄たちには自分たちの悪い行いの結果としか物事を理解できません。しかし、神にはそれをはるかに超えた御計画があったのです。
さらに同じヨセフの口を通して、こうも語られています。創世記50章20節です。
「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」
神は時として、人間の罪さえも用いて、御計画全体を善へと導いてくださるのです。「人間の罪さえも用いて」というとちょっと誤解のある表現ですが、しかし「人間の罪とは無関係に」というのではありません。それこそ、人間の思いをはるかに超えて、神は罪をも包み込みながら、ご自身の善なる御計画を遂行されるのです。しかし、それは人間の罪を決して是認しているという意味でもなければ、仕方のないこととしているのでもありません。
さて、以上の三つの聖書の個所を踏まえて、イエス・キリストの十字架の意味を考えてみましょう。十字架の意味について、聖書が語っていることは明確です。パウロはガラテヤの信徒への手紙1章4節で「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです」と記して、キリストの十字架の死の意味を語っています。それはまさにチャボさんが信じていらっしゃるとおりです。
ところが、キリストを十字架で処刑したのには、人間の罪深い業が絡んでいることも事実です。そのことに関して、ペトロは使徒言行録3章12節以下で民衆に対して次のように語っています。
「兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このようにして実現なさったのです。だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。」(3:17-19)
神の救いの御計画は、罪という現実の世界の中で、罪とは無関係にではなく、まさに罪をも包み込みながら、その目的が成し遂げられいくのです。だからこそ、ペトロの説教の結論にあるとおり、神が御計画なさったことでありながら、しかし、キリストを死に追いやった自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰る必要があるのです。
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