タイトル: 光の子として歩むには? 大阪府 K・Nさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は大阪府にお住まいのK・Nさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「『光の子』として歩こうと思うのですが、どうしたらいいのでしょうか。
両親が亡くなって、夫も子供もいないと自覚してても、他人から『一人やもんね』とか、誕生日の日でも『一人で祝ってね』とか言われたら、落ち込みます。
一人やからって、事実でも、ものすごく侮辱感を感じます。
強い精神が欲しいです。よろしくお願いします。」
K・Nさん、お便りありがとうございます。お便りを読ませていただいて、なんだか悲しい気持ちになってしまいました。どこが悲しいかというと、一人ぼっちの人が誕生日を迎えるその日に、その人に向かって「一人で祝ってね」と平気で言ってしまう人が世の中にいるということです。
もちろん、わたしはその場に居合せたわけではありませんから、その人が何を意図して、どういう言い方でそのことを言ったのかは分かりません。もしかしたら、励ますつもりでそういったのかもしれません。「がんばってね。一人でもくじけないでね。」と言いたかったのかもしれません。
ただ、どういう意図があったにしても、少なくともK・Nさんの気持ちを落ち込ませ、侮辱された気持ちにさせてしまったということはまぎれもない事実です。善意から出た言葉であったとしても、その意図が伝わらないのでは意味がありません。
これは誰もが気をつけなければならないことだと思います。ほんとうにふさわしい言葉を時宜にかなって語るというのは、その人に対する普段からの愛と関心がなければできるものではありません。
にわかに思いついたその場限りの言葉というのは、どんなに善意から出た言葉であっても、たいていは失敗してしまうものだと思います。そういう意味で、K・Nさんを傷つけてしまったその人の失敗は、自分の失敗でもあるように思います。
もちろん、嫌がらせや嫌みから出た言葉であるとしたら、その人の意図通り、深く傷ついてしまうのは当然のことです。そして自分自身が傷つくと同時に、そんな言葉を口にする人に対して、深い不信感をいだいてしまうことと思います。
しかし、とても残念なことですが、他人の口に蓋をすることはできないことです。また、いつも自分の耳をふさいでいるということもできません。人を傷つける言葉というものは、不意に土足で入り込んでくるように、いつもふいに人の心を襲うものです。
そうであればこそ、K・Nさんは「強い精神が欲しい」と願ったり、「光の子」として歩こうと思ったりしていらっしゃるわけですね。
自分を変えるということは、難しいことですが、しかし、他人を変えることに比べれば、可能性はずっと高いように思います。嫌な言葉を言う人を黙らせるよりも、自分自身の受け止め方を変えて、そうした言葉にいちいち左右されない生き方をする方が、平安な暮らしへの近道であるように思います。
そこで、わたし自身が心がけていることをお話したいと思います。まず第一に、どんな言葉も、それを言った人の心の中では、善意から出た言葉である、と信じるようにしているということです。
カチンとくる言葉、傷つくような言葉に触れた時に、できるだけそれを言った人の立場に立って、いろいろと想像してみることにしています。その発言が善意から出たものであると自分を信じ込ませるような、様々な要素や背景を挙げてみることにしています。
そうすることで、いったんは冷静な気持ちになることができます。
しかし、どんなに考えてみても、善意を見出すことができない言葉というものもあります。そういう言葉である場合には、今度はその言葉のどの部分に自分が傷ついたり、腹を立てたりしたのか、冷静に考えてみることにしています。
根も葉もないことを言われて傷ついたり腹を立てたりすることもあるでしょうけれども、案外、自分にとって痛いところをついている言葉だったり、自分の弱さを指摘している言葉だったりすることがあります。
自分の欠点や弱さに触れられると人は腹を立てたり、傷ついたりすることがよくあります。そういう自分を客観的に観察してみることが大切なように思います。
もちろん、自分の欠点や弱さを知ったからと言って、それをすぐに変えることは簡単にできることではありません。大切なのは、自分がどんな言葉によって腹を立てたり、傷ついたりするのか、その事実と傾向を知っているだけでも、腹の立ち方、傷の付き方は変わってくるものです。
そこまで冷静に客観的に考えても、どうしても受け入れがたい理不尽な言葉というものもあります。
その場合には、その言葉を語った人が、どういう背景やどういう意図で、そのことを語ったのか出来るだけ理解するように努めています。たとえその語った言葉が、わたしに対する嫌がらせや悪意から出たものであったとしても、その言葉が出てくる背景を理解するだけでも、その言葉に対するショックも変わってくるものです。
その言葉の背景を理解するということは、言い換えれば、自分がその人の立場に立って、その言葉を発言せざるを得ない気持ちになってみるということです。相手の気持ちになってみれば、いわれたその言葉もそれほど自分を傷つける言葉にはならないものです。
しかし、現実にはどんなに想像力をたくましくしても、相手の気持ちになりきることは難しいことだと思います。結局のところ、ものの考え方や感じ方や、価値観や、それを表現する仕方や、そういったものすべてが相手と違っていることに気がついて、だから、そういう言葉がその人の口から出てきても、仕方のないことだ、と思えるようになるのだと思います。そう思うときに、そんなに考え方の違う人の言葉に、いちいち心を動揺させるのは馬鹿らしくさえ感じるようになってきます。
こう言ってしまうと、なんだか相手の人格を認めないで突き放したように受け取られてしまうかもしれません。しかし、立場を変えれば、まさしくわたし自身が相手にとって、考え方も感じ方も、その表現の仕方もまったく違った人種なのです。そういった意味ではお互いさまなのです。
このことを言いかえれば、互いに自分を絶対と思わないということです。自分が絶対だと思えば、絶対である自分を傷つける相手を赦すこともできなくなってしまうのだと思います。
さて、今まで述べてきたことは、信仰とは関係のない、単なる処世術だと思われたかもしれません。
最後に一言だけ信仰との関係を述べるとすれば、こうゆうことだと思います。絶対者である神を信じればこそ、自分の正しさなど相対的でしかないという気持ちに簡単になることができるのだと思います。相手の言葉にカッカとする前に、自分を相対化して、神の前に置くことができるからこそ、自分についても相手についても冷静に受け止めることが出来るのではないでしょうか。
そして、絶対者であり愛である神が、万事を益としてくださるという信頼があればこそ、降りかかってくる災難と思える言葉にも、心落ち着いて向き合うことが出来るのではないでしょうか。
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