タイトル: 失われたもものを捜すために? 熊本県 K・Iさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は熊本県にお住まいのK・Iさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生、こんにちは。いつもお話、楽しく聴かせてもらっています。
さて、きょうの質問は『徴税人ザアカイ』についてですが、『人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである』と言っていますね。イエスはこれで人々を説得しました。これはザアカイにとっても人々にとっても大事件ではなかったかもしれません。このことについて先生はどう思いますか。教えてください。」
K・Iさん、いつも番組を聴いてくださってありがとうございます。きょうは徴税人の頭、ザアカイに関するご質問ですが、このザアカイとの出来事を通して、イエス・キリストはわたしたちに何を問いかけていらっしゃるのでしょうか。イエス・キリストの言葉から、出来事の意味についてご一緒に考えてみたいと思います。
さて、ザアカイの話については、すでにご存知の方が多いとは思いますが、話のあらすじを簡単に紹介しておきたいと思います。詳しくはルカによる福音書の19章をご覧ください。
事件が起こったのはエリコの町でした。エルサレムに向かう旅を続けていらっしゃったイエス・キリストは、この町を通ってエルサレムに向かう予定でした。エルサレムとエリコとの間はほんのわずかですから、十字架におかかりになるわずか一週間ちょっと前の出来事ということができます。
このエリコにはローマ帝国のために関税を取り立てる徴税人がおりました。この物語に登場するザアカイはこの徴税人の頭でした。ユダヤ人にとっては徴税人という仕事はいくつもの意味で罪人と同然と思われていました。一つには民衆の無知に付け込んで、定められた以上の税金を取り立てて私腹を肥やしていたからです。二つ目には仕事柄、異邦人と接する機会が多く、いつも汚れていると考えられたからです。そして、何よりもユダヤ人にとっては主なる神こそが王であるのに、別の王であるローマ皇帝のために税を取り立てる仕事につくことは、神への裏切りと考えられたからです。
その徴税人の頭であるザアカイは、イエス・キリストが町を通られると聞いて、どんな人か一目でも見てみたいと思ったのでした。ところが背が低いため、群衆にさえぎられて思うように見ることができません。そこで思いついたのが、木の上に登って上から見てやろうということでした。
ザアカイはまさかイエス・キリストが自分に関心を示すだろうなどとは思ってもいなかったでしょう。ただイエスがどんな人物か上から眺めればそれで満足しようと思っていたかもしれません。
ところが、ちょうどそこを通り過ぎようとしていたイエス・キリストからお声がかかったのです。
「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」
この言葉を聞いたザアカイは急いで木から降りて、イエス・キリストを家に迎えいれます。
さて、この様子を見ていた人々はイエスに躓いてつぶやきました。
「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」と。
そんな人々のつぶやきをよそに、ザアカイは自分の決意を表明します。それは罪の悔い改めを具体的な行動で表そうとする決意でした。
そのザアカイの決意を聞いておっしゃられたのが、きょうご質問に出てきたイエス・キリストの言葉です。
「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」
このイエス・キリストの言葉はザアカイに対して語られたというばかりではなく、人々のつぶやきに対しても語られた言葉ととるべきでしょう。
まず、ルカ福音書の大きな文脈の中でこの言葉を考えてみると、二つの点で着目すべき点があります。一つは「今日」という言葉の持つ重みです。ルカによる福音書ではしばしば救いの現在性をこの「今日」という言葉で表現してきました。イエス・キリストの誕生を告げる天使の言葉は「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」(2:11)というものでした。また、イエス・キリストの最初の説教として記されているナザレの会堂での説教は「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(4:21)と結ばれます。イエスのなさる奇跡を見た人々は神の救いの現実を「今日、驚くべきことを見た」と語っています(5:26)。さらに、十字架の上にいたっても、イエス・キリストは救いを求める男に「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と約束なさいます(23:43)。
イエス・キリストとともに救いの「今日」があるのです。ザアカイもまた救いの「今日」をイエス・キリストからいただいた一人なのです。
またこのザアカイの話が記される直前の章で、金持ちの議員がイエス・キリストのもとを離れていく場面が記されています。その時イエス・キリストは「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」とおっしゃいましたが、同時に「人間にはできないことも、神にはできる」ともおっしゃいました(ルカ18:24-27)。
金持ちのザアカイに、しかも不正な手段で金持ちになったザアカイに救いがもたらされたのは、人間には不可能なことを可能にしてくださる神の恵みであったことを示しています。金持ちだから救われないのではありません。人間にとっての不可能を可能にしてくださる神の恵みの力があるから救われるのです。
イエス・キリストはご自分使命について「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」と宣言されます。
「失われたもの」とは、一匹の迷い出た羊のたとえ話を思い起こさせます(ルカ15:4-7)。そのたとえ話に登場する羊飼いはイエス・キリストの姿そのものです。いなくなった羊を捜して歩まわり、見つかったならばその羊をかついで帰り、みんなと共に喜び祝う羊飼いです。そのたとえの通り、イエス・キリストが来られたのは、失われたものを捜して救うためなのです。
ザアカイの家で起こった出来事は、まさにイエス・キリストがたとえ話で語ったことがその通りに実現したことだったのです。
ザアカイの身に起こったことは、ザアカイにとっても、その場に居合わせた人々にとっても、さらには福音書を通してこの事件を知ったわたしたちにも「大事件」そのものです。
イエス・キリストは今もなお失われたものを捜して、救いだしてくださり、「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから」とおっしゃってくださること間違いありません。
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