タイトル: 救いの条件は? T・Hさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はT・Hさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「栄光在主
山下先生、お変わりありませんか。
さて今回の質問は救われる為の条件についてです。
救われる為には『悔い改めて神を信じる』と言う事が大前提ですが、この『悔い改める』という事についてです。何をもってして『悔い改めた』と言えるのでしょうか。屁理屈のようですが人を殺した人がいたとして神に一度だけ『すいませんでした』と懺悔すれば『悔い改めた』という事になるのでしょうか。一度じゃなく十回だと『悔い改めた』という事になるのでしょうか。
そのように考えると、この人が『悔い改めた』というのは神の側の主観ではないでしょうか(神様の判断だから客観といえるのかも知れませんが)。誰が救われるのかという事は結局、神にしか分からない事ではないでしょうか。ご教授願えれば幸いです。」
T・Hさん、お便りありがとうございました。お便りの最後に書かれていること、「誰が救われるのかという事は結局、神にしか分からない事ではないでしょうか。」という点について、まずは簡単にお答えします。
確かにおっしゃる通り、知識においても能力においても無限でいらっしゃる神にはわからないことはありません。誰が救われるのか、神はあらかじめ御存じでいらっしゃいます。それは将来起こることを予知して、誰が救われるのかということを知っていらっしゃるのではなく、あらゆることを御旨のままに御計画なさる神であるからこそ、誰が救われるのかをあらかじめ御存じであるということです。
そういうややこしい話は脇へ置いておくとしても、人の心をすべて御存じである神は、人が本当に悔い改めているのかどうかを御存じです。
このすべてを御存じである神と同じように、誰が本当に悔い改めているのか、誰がほんとうに救われるのか、ということをわたしたち人間が完全に知ることは不可能です。神とは違うわたしたち人間は、知識においても能力においても限りがあるからです。
しかし、そうだからといって、洗礼を受けてクリスチャンになった人が皆救われているのかどうか疑わしいと思い始めたら、これはキリがありません。また洗礼を授ける教会の判断があてにならないと疑い始めたら、だれもクリスチャンだと確信を持てる人はいなくなってしまうでしょう。
では、どういう筋道で考えるべきなのでしょうか。
確かに、悔い改めてキリストの福音を信じることは、救われるために必要な事柄です。この悔い改めと信仰を合わせて「回心」と呼ぶこともあります。自分の罪を自覚し、罪を憎み、罪からの救いを求めてキリストにより頼み、神に立ち返ることこそ「回心」です。
聖書が言う悔い改めとは、方向転換をすることです。それは罪の生活から神に従う新しい生活への方向転換です。従って当然そこには自分の罪を自覚し、それを嘆き憎むことが含まれます。しかし、ただ罪を後悔するというのではなく、その罪を贖い、赦してくださる神の憐れみにより頼んで、神に立ち帰る決心をすることです。
さて、自分が罪を自覚しているか、そして、その罪を嘆き憎んでいるかどうかは、神ご自身は別として、少なくとも本人が一番良く知っているはずです。もちろん、どこまで罪を自覚し、どこまでそれを嘆き憎んでいれば完璧なのかという話は別問題です。聖書がいう一つの罪でも自覚し、そういう罪を嘆き憎んでいること、そして、少なくともその罪から解放されるために、神に立ち返ろうとする思いがあるかどうか、そこが重要な点です。
本人以外の人間は、神のようにその人の心の内を知ることはできません。本人の心の内を本人の言葉と態度を通して知るよりほかはありません。少なくとも本人の告白は、よほど態度が言葉と矛盾しない限り、そのままを受け入れるしかありません。教会である人に洗礼を授ける場合、その人が本当に悔い改めているかどうかは、本人の告白の言葉とそれを裏切らないその人の態度で判断しているのが実情です。
しかし、また、悔い改めは神に立ち帰る決心ではありますが、完璧に神に立ち帰るのを見届けるまでは、ほんとうの悔い改めとはいえない、というものではありません。信じて後、一度でも罪を犯せば、その人の悔い改めはほんものではなかったというものでもありません。
聖書は完成へと向かう途上にあるクリスチャンであってもまことの信仰者として描いているのです。聖書はそういう弱さをもった不完全なクリスチャンを前提としているのですから、悔い改めは必ずしも一回限りのものではありません。
さて、以上のことを踏まえて、ご質問の中に出てきた事柄を考えてみましょう。
「人を殺した人がいたとして神に一度だけ『すいませんでした』と懺悔すれば『悔い改めた』という事になるのでしょうか。一度じゃなく十回だと『悔い改めた』という事になるのでしょうか。」
この場合、どんな罪かは問題ではありません。殺人であれ、泥棒であれ、あるいは友だちを憎む心であれ、自分の罪を自覚していること、そして、その罪を心から嘆き憎んでいるかどうかという問題がまず一つです。
「すいませんでした」という言葉にそれが表れているかどうかは、このお便りの中ではもちろん判断できません。具体的にその人にあって、その人の口から聞いてみないことには、何とも言えないことです。
仮に、それが心から出た言葉であり、その言葉の裏に罪を心から嘆き憎んでいる思いが表れているならば、その本人の言葉を信用するほかはありません。もちろん、態度そのものがその言葉を裏切っていない限り、という条件つきです。
しかし、そう告白して、また、神に立ち帰る生活を始めたとしても、また同じ罪を繰り返すということがないわけでもありません。それも一度や二度ではないということもあるでしょう。けれども、そのたびに本人がその罪を認め、その罪を悔い改めると告白するならば、やはり、それを受け入れるしかないと思うのです。
マタイ福音書18章でイエス・キリストがペトロの質問に答えて、「7の70倍までも赦しなさい」とおっしゃったとおりです。その人が神に立ち帰ろうとしている限り、その者を助けその人を受け入れることが教会という共同体の務めだからです。
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