タイトル: 好きになれない人がいますが… C・Oさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はC・Oさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生、いつも番組を楽しみに聴いています。
さて、きょうはわたしがずっと悩んでいることについて聞いていただきたいと思いメールしました。
わたしはクリスチャンですが、どうしても好きになれない人がいます。クリスチャンとしてみんなに対して平等に優しく接しなくては、と思うのですが、どうしても嫌だと思ってしまう人がいます。どこがどう嫌なのか、説明するのは難しいのですが、一言でいえば生理的に受け付けないというのでしょうか…。考え方や行動のパターンや立ち振る舞いがわたしのそれとは合わなくて、好きになれないのです。極端すぎるかもすぎませんが、顔を合わせるのも嫌なくらいです。
わたしはポーカーフェイスや営業スマイルが下手らしく、嫌いな人となると気持ちが顔にまで出てしまうようです。そういう欠点があることを人から指摘されて余計に意識してしまうせいか、自分でも嫌になるくらいぎこちなくなってしまいます。
こういうことは相談するまでもないことはわかっているつもりです。クリスチャンであるならば、やはり、その人のことを好きにならなければいけないし、その人に対しても他の人と同じように接しなければいけないのですよね。
わかっていながら、そこがどうしても心がついてこなくて悩んでいます。他の人たちはそんな気持ちになったことがないのでしょうか。
どうすれば問題を解決することができるのか、ぜひ先生のアドバイスをお聞かせください。よろしくお願いします。」
C・Oさん、お便りありがとうございました。C・Oさんが抱えていらっしゃる問題は、男女や年齢の区別なく、案外他の人も抱えている問題ではないかと思います。
お便りを読ませていただいて感じたことは、「好き嫌い」の問題と、聖書が教えている「隣人愛」の問題が、どこかで混同しているのではないかと思いました。「好きである」ということと、「愛する」ということは、とてもよく似ていて、普段はあまり意識しないでこの二つの言葉は使われているのではないかと思います。特に恋愛関係にある男女の間では、「好き」と言うのも「愛してる」と言うのもほとんど同じ意味である場合もあります。もちろん、ラブ(love)とライク(like)は違うというこだわりを持った人がいることも確かです。
ただ、いずれにしても「好き」であることと「愛する」ということは、しばしば混同されがちであるために、C・Oさんのような悩みが出てきてしまうのだと思います。
では、「好き」であることと「愛すること」はどこがどう違うのでしょうか。
「好き」という漢字は「好み」とも読みますが、C・Oさんがおっしゃっている「好きになれない」とか「嫌い」と言っていることの大半は好みに関する事柄ではないかと思うのです。好みに好き嫌いがあるというのは、これは仕方のないことです。いえ、百人の好みがまったく同じであるということの方が不自然です。十人十色という言葉もあるように、十人いれば十人の思いや好みやなりふりは違うものです。一人ひとりが違ってあたり前です。
キリスト教的なものの見方でいえば、神が一人一人を違ったように造ってくださったということです。
しかし、神がそのように一人一人を違うように造ってくださったのだとしたら、神が造ったものを嫌いなどというのはもってのほかということにはならないでしょうか。
そこでまた問題となるのは「嫌い」というのはどういう意味でそれを使うのか、という問題です。
たとえば、穏やかであることを好む人が、激しい情熱的な人と一緒にいるとどうしても落ち着かなくて好きになれない、というのはある程度仕方のないことです。穏やかな人も激しい性格の人も両方好きになれないとダメだとは言えないでしょう。
好みの問題で、「好きになれない、嫌いだ」、という場合は、それ自体は罪とは言えません。
もっとも、C・Oさんが好きになれないと言っている相手の人は、ただ単に好みや性格の違いというだけではないのかもしれません。
先日、見たあるテレビ番組でやっていた実験では、女性は自分とDNAの構造が近い男性の体臭は生理的に受け付けないそうです。その番組の説明によれば、DNAの構造が遠い人との間に生まれた子供のほうが、それだけ安全に子孫を繁栄させることができるという、動物的な本能によるものだそうです。
科学的にどれくらい根拠のある事なのかは検証できませんが、動物的な本能で安心感を感じたり、危険を感じたりということから、生理的に受け入れられないということがあっても不思議ではないように思います。
さて、問題はここからなのですが、好みや性格や動物的な本能から好き嫌いが生まれるのだとしたら、それはもはや本人にはどうすることもできない事態としか言いようがありません。
けれども、そのことと、その人を愛するということは別の問題なのです。
たとえば、好みや性格や動物的な本能から好きになれない人がいたとして、その人に対して消極的にせよ積極的にせよ、何か害悪を及ぼすようなことをするとすれば、それは明らかに愛に反する行いです。嫌いだから仕事を回さない、好きではないので困っていても助けてあげない、などというのであれば、生理的な「嫌い」を通り越して、憎しみの世界です。「好き」であることと「愛すること」、「嫌い」であることと「憎しむこと」が同じなのであれば、そういう行動も正当化できるでしょう。
しかし、愛することと好きであることは違うのですから、好みではないということが、愛さないということを正当化することはできないのです。
言いかえれば、好きではない人を好きになることを聖書は求めませんが、好きではない人を一人の人格として尊重し愛さなくてもよいとは聖書は言っていないのです。
お便りの中でC・Oさんは「クリスチャンであるならば、やはり、その人のことを好きにならなければいけないし、その人に対しても他の人と同じように接しなければいけないのですよね。」と書いていらっしゃいます。
しかし、好みや性格や動物的な本能は神から一人一人に与えられたものですから、それを無理に変えなければならない必要はないはずです。そういう意味でC・Oさんのおっしゃる「クリスチャンであるならば、やはり、その人のことを好きにならなければいけない」という部分はどこか違うような気がします。けれども、「その人に対しても他の人と同じように接しなければいけない」という部分に関してはまったくその通りだと思います。なぜなら、聖書はどんな相手に対しても、たとえその相手が「敵」であったとしても、愛することを命じているからです。どんな相手であれ、困っていれば手を差し伸べ、その人を人として重んじることは、好みの上での好き嫌いとは別の問題だからです。
営業スマイルやポーカーフェイスは確かに人付き合いの上では大切かもしれません。露骨に自分の感情をむき出しにしてしまうのは大人げないと言われても仕方ありません。しかし、肝心なことはどうやって上手にうわべを取り繕うか、ではなく、やはり、嫌いな相手であっても人間として尊重すべきときには、少しも手を抜かないということではないかと思います。
どんな人に対しても尊厳ある存在として敬い愛する気持ちをもつときに、C・Oさんが気にしていた人間に対する好き嫌いの問題もそれほど大きな問題にはならなくなってくるのではないかとわたしは思います。
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