タイトル: イエス様の『父親像』は間違っているのでは? ハンドルネーム・tadaさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・tadaさんからのご質問です。お便りをご紹介します。
「新約聖書ルカによる福音書 11章には、イエス様の父親の譬え話が記されています。
『そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。』
しかし、実際には、魚を欲しがる子供に蛇を与え、卵を欲しがる子供にさそりを与える父親はたくさんいます。さらには、何も欲しがっていない子供に蛇やさそりを与える父親もたくさんいます。ですから、親から愛情を受けなかった子供たちは、大人になって、人を信じない人間になり、苦しむのです。そういう意味では、イエス様の『父親』に対する認識が間違っていると思います。そうではないですか。」
tadaさん、いつも番組を聴いてくださってありがとうございます。いただいたお便りを読ませていただいて、何をどうお答えしたらよいのかと、しばし考えてしまいました。
まずは、イエス・キリストの教えの趣旨がどこにあるのか、というところから見ていくことにします。
このイエス・キリストの発言の結論は疑いもなく、「天の父なる神は求める者に聖霊を与えてくださる」ということ以外の何物でもありません。この発言を通して、そのことが聴く者に伝わるかどうか、そこが問題です。もちろん、それを信じるかどうか、というのは別問題です。言っていることはわかるけれども、それを信じて受け入れることはできないという人がいるというのは事実だと思います。
tadaさんが問題にしているのは「天の父なる神は求める者に聖霊を与えてくださる」というこの結論部分ではありません。そうではなく、そこに至るまでの論理の部分を問題にしています。
イエス・キリストは、当時の父親像の常識に訴えて、人間の父親でさえそうであるのなら、まして天の父なる神はそれにもとるはずがない、という論理の展開で、「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」という結論を出してきました。
おそらくイエス・キリストの言葉を直接聞いた人々は、tadaさんが変だと思ったことを変だとは感じなかったのだろうと思います。その当時、tadaさんと同じことを思った人が全くいなかったとは断言できませんが、少なくともイエス・キリストの発言が当時の父親像とはかけ離れたものであったのなら、誰もイエス・キリストの発言を相手にはしなかったことでしょう。
しかし、現代社会ではどうかといえば、tadaさんがご指摘したような、子供に悪いものを与える父親がいるということは否めません。ひょっとしたら当時もいたのかもしれません。しかし、tadaさんがおっしゃるように「たくさんいる」と言えるのかどうか、わたしには客観的な判断の材料がありません。当時どうであったのかという判断を下せる客観的な資料はおそらくないでしょう。現代社会ではどうか、というと、tadaさん自身も客観的な統計から、そのような父親が「たくさんいる」とおっしゃっているわけではないでしょう。
もちろん、tadaさんのまわりにはそういう父親がたくさんいるのだとすれば、あるいはtadaご自身の親子関係の体験がそういうものであったのだとすれば、イエス・キリストの教えを素直には受け取れないという気持ちは理解できます。
ただ、仮に今どきの父親というものが、tadaさんのおっしゃるように子供に悪いものばかりを与えることが日常化しているとしても、問題は、社会全体がそういう父親像を理想の父親と考えているかどうか、ということなのだと思います。
おそらく、イエス・キリストの時代のユダヤ人社会にも、子供に悪いものを与える父親はいたのかもしれません。ひょっとしたら、現実にはそういう父親であふれていたのかもしれません。しかし、少なくともそれが当時の理想の父親像ではなかっただろうと思います。もし、当時の人々が描くあるべき父親の姿が、子供には良いものを与えるということであれば、イエス・キリストの教えの結論は素直に受け取られただろうと考えられます。
これは現代社会でも同じことだと思います。たとえ現実に、子供に悪いものを与える父親が大半を占めたとしても、それが父親のあるべき姿ではないということが了解されている限り、イエス・キリストの論理の展開には少しも支障をきたすものではないと思われます。ルカ福音書の11章のあの教えにとって大切なことは、「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」という結論部分であって、そのことが、あるべき人間の父親像から類推できればそれで事足りるのです。
しかし、人々があるべき父親像を、そのように思わなくなったとき、つまり、父親たるものは子どもに悪いものを与えるべきである、ということが当たり前の社会になってしまったとしたら、tadaさんのおっしゃる通り、イエス・キリストの父親像に対する認識は間違っているということができるでしょう。
ところで、tadaさんは、「親から愛情を受けなかった子供たちは、大人になって、人を信じない人間になり、苦しむのです。」とおっしゃっています。イエス・キリストの教えの中に出てくる「良いもの」という言葉を「愛情」に置き換えているのだと思いますが、親からの「愛情」が子供に十分に与えられないと、人を信じない人間になるというのは本当だと思います。ただ、親からの愛情を受けない子供のすべてが人間不信になるわけではないのは、親に代わる誰かから愛情を受けているからでしょう。
そして、このことから言えることは、父親が子供に良いものを与えなくて当然だとすることを社会の常識と考える風潮はこの先何百年たっても決して起こりはしないということです。人間不信で苦しむような人格形成が正しいはずがないと誰もが信じているからです。
イエス・キリストがおっしゃる通り、父親たるもの、子供に良いものを与えるべきなのは当然のことなのです。そのことが受け入れられるとすれば、人間の父親にはるかに勝る天の父なる神が、人間に対して人間の父親以下のことをするはずがないという道理はすんなりと受け入れられのではないでしょうか。
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