いかがお過ごしでしょうか。東京教会の今井 献です。
マタイによる福音書17章の24節以下を読むと、イエス様は、神殿の税金の問題で、ご自分が人をつまずかせる原因になることがないように、細心の注意を払っておられます。つまずかせるとは、人をワナにかけて滅ぼすという意味であり、救い主であるイエス様にとって、もっともふさわしくないことであったからです。
その一方で、聖書には、イエス・キリストご自身がつまずきの石であると書いてあるところもあります。ローマの信徒への手紙9章30節以下には、信仰による救いを理解できない者にとって、キリストは魅力のない、つまずきの石であると教えられています。「彼らはつまずきの石につまずいたのです。『見よ、わたしはシオンに、/つまずきの石、妨げの岩を置く。/これを信じる者は、失望することがない』」。
ただ信仰によって救われるとは、キリストの十字架がわたしたちの罪の償いであることを知り、これを受け入れ、キリストを救い主と信じることにより救われるということです。よい人、立派な人が救われるのではなく、罪人が救われるということです。
自分には、神の前でも罪がないという者に、キリストの救いは無意味なものに思えます。それゆえ、キリストの存在そのものが、わたしたちに自らが何者であるかを問いかけます。キリストにつまずくとは、自分自身を見誤り、自分につまずくことなのです。
どうか、みことばを読み、自分自身は何者か、キリストの救いが必要ないのか、自らに問いかけてください。