おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
旧約聖書の詩編にこんな言葉があります。
「涸れた谷に鹿が水を求めるように 神よ、わたしの魂はあなたを求める。」詩編42編2節の言葉です。
旧約聖書の舞台になっているパレスチナでは、冬の雨季になると雨水が激しく流れる谷川がありました。ところが、水がほしくなる肝心の夏になるとすっかり涸れて干からびてしまうのです。
先ほど取り上げた詩編の中に出てくる鹿の姿は、そんな夏の日照りの中を、水を求めて空しく探し回る鹿の姿です。
その鹿の姿になぞらえて、この詩編の作者は真の神を慕い求める自分の姿を描いています。しかも、苦しみの中で、神を慕い求める願いは中々叶えられません。周りを囲む人々は、そんな様子をあざ笑って、「お前の神はどこにいる」とさえなじります。
このしおれてしまいそうな魂の渇きを覚えながら、それでもこの詩編の作者は神を待ち望みます。なぜなら、魂の渇きを癒してくださるお方は、聖書の神しかいらっしゃらないからです。
この詩編の言葉に触れるときに思うことがあります。わたしたちは魂の渇きを心の奥底におしこめてはいないだろうか、安易な方法で魂の渇きをごまかしてはいないだろうかと自分自身を省みます。