いかがお過ごしですか。ラジオ牧師の山下正雄です。
聖書の中に面白い言葉があります。
「罪人らのことに心を燃やすことはない 日ごと、主を畏れることに心を燃やすがよい」
旧約聖書箴言23章17節の言葉です。
悪意をもった人に対して腹が立つというのは当たり前のことです。たとえその悪意が自分に直接向けられたものではなくても、誰かがその悪意の犠牲になった時、黙っているわけにはいきません。それが社会正義というものです。
ところが、箴言の言葉は意外にも、罪人らのことで情熱を燃やすなと勧めるのです。人間の正義感ほど危ういものはないからでしょう。怒りに燃え上がるばかりで、事柄の本質を見失ってしまいがちだからです。
同じ情熱を注ぐのであれば、聖書の神である主を畏れ敬うことに情熱を注げと聖書はいうのです。
これは決して社会正義などどうでもいいと聖書が考えているからではありません。
神を畏れることは自分をも相対化することです。自分を絶対化するところには社会正義の実現などありえません。人間が抱えている悪の問題を冷静沈着に理解するために、主を畏れることが大切なのです。
主を畏れ敬うことに熱情を注いでこそ、人間の抱える罪の問題に正しく向かうことが出来るのです。