メッセージ: 何を求めて生きるのか(ルカ12:22-34)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
「価値観」という言葉はあまり魅力のない言葉になったように思います。あまりにも多くの人が自分の価値観について主張するあまり、それは単に「わがまま」というのと同じ意味に聞こえてしまうからです。
もっとも、それにもかかわらず、「価値観」について考えることは大切な事柄です。どういう価値観をもっているかで、その人の生き方が違ってくるからです。
イエス・キリストはわたしたちにどんな価値観をもって生きているのか、言い換えれば、何を求めて生きているのかを絶えず問い掛けていらっしゃいます。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 12章22節〜34節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」
きょうの箇所は、先週取り上げた「愚かな金持ちのたとえ話」と密接な関係があります。
そもそも、「愚かな金持ちのたとえ話」をキリストが語るきっかけは、遺産の分配を公平にしてもらえるように調停して欲しいという男の願いによるものでした。イエス・キリストはこの男がもっている問題点をすばやく見抜いて、たとえ話を結ぶに当ってこうおっしゃいました。
「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」
「神の前に豊かになる」という発想がこの男にあったとすれば、大切な話をしているイエス・キリストに割り込んでまで、自分の問題を解決してもらおうとは願わなかったことでしょう。
さて、きょう取り上げる箇所では、神の前に豊かになる秘訣が、弟子たちを前にして語られています。
「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」とイエス・キリストはおっしゃいます。
そもそも、遺産を公平に分けるように調停して欲しいと願った男の心には、命のことでの思い煩いがあったにちがいありません。愚かな金持ちのたとえにあるように、財産を手にして「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」とばかり安心を手に入れたかったのでしょう。
しかし、イエス・キリストは「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」とおっしゃいます。
思い悩みの第一の原因は、自分自身の価値を誤解していることです。イエス・キリストは空の鳥よりも、野の花よりも、あなた方は価値あるものだとおっしゃっています。
空の鳥や野の花は神の配慮の下に置かれているけれども、自分は神から見捨てられていると考えることは正しくありません。空の鳥や野の花を配慮してくださる神が、それ以上に人間を顧みて下さらないはずはないのです。そのようにわたしたちを取り扱ってくださる神との信頼関係こそが思い悩む心からわたしたちを解放するのです。
神の前で豊かに生きる秘訣は、まずは、わたしたちを顧み、配慮してくださる神との信頼関係を築くことです。
思い悩みの第二の原因は、何を切に求めて生きるのかという、人生の目標についての誤解です。このことは、思い悩みの第一の原因と密接に関わっています。自分が神によって顧みられないと思えば、あるいはそもそも神などいないと思えば、生きるための手段を自分の手で確保しなければならないという不安に駆られます。そうするうちに生きる手段が生きる目標そのものになり下がってしまいます。生きる手段についての不安が、生きる目標をも揺るがしてしまうのです。
逆に、あの愚かな金持ちのたとえ話に出てくる主人公のように、万が一、一生分の生活の手段を得たとしても、生活手段を得ることが生きる目標だったのですから、その時点で生きる目標を見失ってしまうのです。
「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」といわれる生き方とは、まさにそういう生き方です。
しかし、イエス・キリストはおっしゃいます。
「あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。」
何を求めて生きていくのか、その価値観の転換をイエス・キリストは弟子たちに求めていらっしゃるのです。
そして、その価値観を変えることが出来るのは、結局のところ、わたしたちの必要なことをすべてご存じであり、また惜しみなくそれを与えてくださる神をしっかり受け止めているか、という信仰の問題です。
所詮、人間の力には限界があります。どんなに思い悩んだからといっても、わずかでも命を延ばすことはできません。そういう無意味な思い煩いに支配されるのではなく、わたしたちを支えてくださる神に信頼して、神の国をしっかりと目指して歩むことを、イエス・キリストはわたしたちに願っていらっしゃるのです。
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