メッセージ: 受け入れられる時にも、拒まれる時にも(ルカ10:5-16)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
キリスト教を伝道する人にとって一番の喜びは、伝える福音が受け入れられ、受け入れた人の人生が変えられていく様を目の当たりにすることではないかと思います。また、逆にキリスト教を伝道する人にとって一番の悲しみは、伝える福音が拒絶される時です。その時には福音が拒まれたという悲しみと同時に、まるで、自分という存在が拒まれてしまったような気持ちにさえなります。
きょう取り上げようとしている箇所で、イエス・キリストは「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである」とおっしゃっています。
福音を伝えるわたしが受け入れられたり、拒まれたりしているというのではなく、やはりそこではキリストが受け入れられ、キリストが拒まれているのだということを今一度思わされます。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 10章5節〜16節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。
しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む。」
「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところでなされた奇跡がティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰の中に座って悔い改めたにちがいない。しかし、裁きの時には、お前たちよりまだティルスやシドンの方が軽い罰で済む。また、カファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。
あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。」
きょう取り上げる箇所は先週からの続きです。イエス・キリストが七十二人の弟子たちを遣わすに当って述べられた言葉の続きです。
先週取り上げた箇所には、この弟子たちの派遣は「狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」と言われていました。イエス・キリストはそんな危険な目に弟子たちをさらそうとしているのでしょうか。そうではありません。だからこそ、神の守りを信じて、神だけを頼りとして遣わされていくことが大切なのだ、ということです。
きょうの箇所では、伝道する場所で取るべき具体的な行動が記されています。
まず「どこかの家に入ったら」とあります。福音を宣べ伝える町や村に入ったら、まず拠点となるべき家を捜すということでしょう。もちろん、その町の人々が福音に耳を傾けるのかどうか、町に入っただけでは分かるはずもありません。まして、どの家が好意的に自分を迎え入れてくれるかは、外から家を眺めただけで分かるはずもありません。
手当たりしだいどこかの家に入るのか、それとも、人間の知恵の限りを尽くして適当な家を捜すのかは分かりませんが、とにかく家に入ったら「この家に平和があるように」と言うようにと命じられています。
「平和があるように」というのはユダヤ人の普通の挨拶の言葉です。しかし、弟子たちが口にする言葉は、ただの形式的な挨拶ではありません。ふさわしい家には平和がとどまり、そうでない家には願い求めた平和がとどまらず、それを祈った弟子たちのところに平和が戻ってくると言うのです。実際には、その家に自分たちが迎え入れられるかどうか、それによって平和がその家に留まっているかどうかを知るということでしょう。
逆に「平和はあなたがたに戻ってくる」というのは、自分たちがその家に迎え入れられなかったということに他ならないわけですが、しかし、迎え入れられなかったことで、不安や不穏が自分たちを襲うのではないのです。その家のために祈り求めた平和が、自分たちに帰ってくるのです。
さて、拠点となる家が見つかったなら、「家から家へと渡り歩くな」と命じられます。「家から家へと渡り歩く」のには、二つの場合が考えられます。一つはよりよい報酬を求めてです。イエス・キリストは「働く者が報酬を受けるのは当然だ」とおっしゃいます。しかし、出されたものに満足せず、より善い報酬を求めて渡り歩くことは本末転倒です。よりよい報酬を求めて福音を伝えるのではなく、福音を伝えた結果として、それにふさわしい報酬が与えられるのです。
「家から家へと渡り歩く」のにはもう一つの理由が考えられます。それは遠慮です。イエス・キリストは「働く者が報酬を受けるのは当然だ」とおっしゃいます。世話になる家庭に心を配ることは大切なことです。しかし、配慮するあまり、転々と居場所を変えて落ち着きのない福音宣教であってはならないのです。
拠点となる家が見つかり、町の人々が福音を聞こうとしていることが感じられるなら、「その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい」と命じられます。それはイエス・キリストご自身がなさった福音の宣教で、十二人の弟子たちも派遣された時に同じように福音を宣教しました。福音を宣べ伝えるチャンスを自分の手で閉ざしてはいけません。道が開かれる限り、どこまでも憚ることなく大胆に語りつづけてよいのです。
ところが、イエス・キリストは町の人々が耳を閉ざす場合のことも語っています。
「町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。」
足についた埃を払い落とすというのは、抗議のしるしです。しかし、何も言わずに出て行くのではありません。聞く耳を持つ者たちに対するのと同じように「神の国が近づいたこと」を知らせるのです。
福音の宣教というのは、人間の思い通りに行くとは限りません。もちろん、福音が伝わらないのには、福音を語る者の落ち度がないとはいえません。そうであればこそ、福音の宣教が思うとおりに進展しないときに、自分を責める思いに駆られるものです。そうした語る者の落ち度は否定できません。土くれの器に過ぎない人間が神のメッセージを携えて遣わされているとしか言いようがありません。
しかし、イエス・キリストは福音を聴く者の責任もけっしてうやむやにはなさらないのです。福音を語る者は尊大になってはいけませんが、必要以上に自分を責めるばかりでもいけないのです。
福音に耳を傾ける責任から、だれも逃れることができないことをしっかりと伝える務めもまた、遣わされていく七十二人の弟子たちの使命なのです。
イエス・キリストから委ねられた宣教の業だからです。
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