聖書を開こう 2009年8月20日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: イエスに従う覚悟(ルカ9:57-62)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 決断を下すと言うことは、何がしかのリスクを引き受けることであると思います。というのも、人間誰しも未来を完全に予測することは不可能だからです。分からない未来に向かって決断を下すのですから、リスクを覚悟しなければならないのは当然です。決断力のない人は結局のところリスクを引き受ける勇気のない人だと思います。

 では、イエス・キリストを信じて従う決断を下すと言うことは、何がしかのリスクを引き受けると言うことなのでしょうか。信仰にかかわることで決断を下すのは、一見リスクを引き受けるようでありながら、しかし、そうではないような気がします。信仰に関わる決断は自分がそのリスクを引き受けると言うよりも、自分に代わってリスクを引き受けてくださるお方に絶対の信頼を寄せる決断だからです。

 きょう取り上げよ言うとしている箇所で、イエス・キリストはご自分に従うとはどういうことなのか、その覚悟をお語りになっています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 9章57節〜62節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。

 きょう取り上げる箇所は、エルサレムに向かう旅の途上での出来事です。「一行が道を進んで行くと」という書き出しの言葉は、先週学んだ9章51節の言葉…「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」という言葉を受けています。
 そして、エルサレムに向かう旅とは、十字架の上で引き受けられる苦難に向かっての旅ということです。

 そういう緊張感に溢れる文脈の中で語られたイエス・キリストのお言葉であるということを、頭の片隅に置いておく必要が一方にはあるように思います。しかし、そこで語られているすべてのことが、十字架に向かわれる特殊な状況の中でだけ意味を持つものだと決め付けることもできません。ここで語られるイエス・キリストの言葉は現代に生きるわたしたちへのメッセージでもあることを、頭のもう一方の片隅において聞く必要があるように思います。今を生きる私たちへの言葉でなければ、ルカによる福音書はこれらの言葉をばっさりと福音書から省いてしまうこともできたでしょう。

 さて、きょうの場面には三人の弟子志願者が登場します。どういう経緯でこのようなやり取りが交されることになったのか、ルカによる福音書は詳しい状況を記しません。会話が交される状況描写よりも、イエスの言葉そのものに焦点を絞ってルカは記録を留めています。

 まず、最初の人物はストレートにイエス・キリストに従う気持ちを言い表します。

 「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」

 言葉そのものを取り上げるなら、それは立派な信仰の表明だとも言えるでしょう。たとえ火の中、水の中でもイエス・キリストに従ってついていこうとする気持ちを言い表した言葉でしょうか。確かにそうかもしれません。

 しかし、イエス・キリストの耳には、そうは聞こえなかったのです。「あなたがおいでになる所なら、どこへでも」と口では言うのですが、イエス・キリストがどこに向かって歩もうとされているのか、本当に知っているとはとても思えなかったのでしょう。
 ですから、イエス・キリストはおっしゃいます。

 「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」

 イエス・キリストには狐や空の鳥でさえ持っているような安心して過ごせる場所かがないとおっしゃるのです。イエスの行くところ反対のそしりがあり、謂れのない苦しみもあるのです。おちおち寝てもいられないほどの境遇があることもしっかり心に留めなければなりません。
 しかし、イエス・キリストはそのようなリスクを引き受ける覚悟を弟子たる者に求めていらっしゃるわけではないでしょう。そうではなく、イエス・キリストと共にいることのよい面ばかりを見て従って来ることの短絡さを戒めているのです。イエスに従うことに伴う様々な困難も見据えた上で、それでも、イエス・キリストと共にあることの素晴らしさを確信できるか、その覚悟を問うていらっしゃるのです。

 二番目の人は「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言いました。それに対するイエス・キリストの答えは「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」と言うものでした。
 このことは必ずしも弟子たる者が親の葬りすることをキリストが一般的に禁止していると取るべきではないでしょう。
 また、この人がたった今亡くなった父親のことを気にかけているのか、それとも、将来亡くなるかもしれない父親のことを気にかけて、そういう心配が全部なくなってから従うと言っているのか定かではありません。ただ、どちらにしても、イエス・キリストの言葉には、優先順位のつけ方に対して、強くはっきりした要求があることは間違いありません。初めから神の国を二番目においてキリストの弟子になることはできないのです。
 では実際に神の国を第一として生きることができるかどうか、それを疑い始めたら一歩も踏み出すことはできないでしょう。しかし、だからと言って、最初から神の国を後回しにしてもよいという思いでは、そもそもキリストの弟子とはいえないのです。その優先順位に対する覚悟をイエス・キリストは求めていらっしゃるのです。

 最後に三番目の人物は「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」と言いました。それに対してイエスの答えは「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」というものでした。
 このことは挨拶などどうでもよいことだと短絡的に考えてしまってはいけません。イエス・キリストが見ていらっしゃったのは、後ろを振り返ってしまう態度です。そして、この場合の「後ろを振り返る」というのは、過去を反省して将来に向かうためではなく、明らかに昔を振り返って過去を懐かしみ過去に執着する思いです。キリストを知ることの素晴らしさにすべてを後ろに投げ遣って、前へと進もうとする決断を神に信頼して下すことをキリストは求めていらっしゃるのです。

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