メッセージ: 小さい者を受け入れる謙虚さ(ルカ9:46-50)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
他人を受け入れるということは、口でいうほど簡単なことではありません。自分とは異なるものを受け入れるということは忍耐が必要だからです。もし、そこに上下関係の意識が加わると、相手を受け入れるよりも、支配したりされたりする関係に陥ってしまいがちです。
きょう取り上げようとしている箇所には弟子たちの高慢な態度とそれを諌めるイエス・キリストの教えが記されています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 9章46節〜50節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた。イエスは彼らの心の内を見抜き、一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせて、言われた。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」
そこで、ヨハネが言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちと一緒にあなたに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである。」
きょうの箇所は、弟子たちが自分たちの仲間内でだれが一番偉いのかということで議論を始めたという話です。キリストの弟子たちとはいえ、人間の集団ですから、誰が一番かという話が持ち上がっても不思議ではありません。
よりによってこの議論は、イエス・キリストがご自分の苦難を予告したすぐ後で起りました。イエス・キリストがご自分の苦難を予告した言葉を聞いた弟子たちは、その言葉の意味が理解できなかったとルカによる福音書は記しています。そうかと言って、弟子たちはイエスにその真意を問いただす勇気もありませんでした(ルカ9:45)。
そんな弟子たちがイエス・キリストの言葉を聞いて何を心の中で考えていたのかは、この弟子たちの議論から推し量ることができます。
弟子たちはイエス・キリストが二度もご自分が受けようとしている苦難についてお語りになったので、それが引き起こすただならない事態を思い浮かべたのでしょう。
イエスの言葉どおりに、メシアが人々の手に引き渡されようとしているのだとすれば、何としてでもメシアであるイエスをお守りしなければならないと弟子たちは考えたのかもしれません。そうなれば、中心に立って弟子たちをまとめあげる指揮官が必要です。そんな議論から自分たちの中で誰が一番偉いのかという話になったのかもしれません。
あるいは、メシアが人々の手に渡されるのは、いよいよメシアの国が樹立される前ぶれかも知れない、と弟子たちは考えたのかもしれません。そうなれば、新しい神の国で誰がイエス・キリストの右に立つのか、そんな先の地位争いを早々としていたのかもしれません。
いずれにしても、それはイエス・キリストが予告したご自分の苦難の意味とはかけ離れた空想でした。イエス・キリストが完成しようとしていた神の国は、弟子たちの考えているような王国とは違います。この世の王国のように武力によって支配する国でもなければ、特定の民族によって成り立つ国でもありません。メシアの死を通して、人々が罪の束縛から解放され、神の支配が樹立することによって完成する王国です。
ルカによる福音書が告げるとおり、弟子たちにはメシアの苦難の意味が理解できなかったのです。
そこで、イエス・キリストは子供を連れてきて立たせ、こうおっしゃいました。
「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
子供を半人前の人間として扱い、大人の保護監督の下に置くことは、大人として当然のことでしょう。そういう意味では、言われるまでもなく子供は大人によって保護のもとにおかれているのです。しかし、ここで、イエス・キリストが求めていらっしゃることは、そういう子供の受け容れ方ではありません。一人の人間として、他の大人たちと同じように、神の国の恵みに値する存在として扱うことです。
このことについては、弟子たちが実際に子供たちをどう扱っているか、他の箇所でその様子が記されています。ルカによる福音書18章15節以下に記されるエピソードです。
人々が乳飲み子たちを連れてイエスから祝福を受けようとやって来たとき、弟子たちはそれを見咎めたとあります。
弟子たちの名誉のために言えば、弟子たちがそのような行動を取ったのは、その当時のユダヤの社会が子供たちに対してそういう態度を当たり前にとってきたからでしょう。
しかし、その時もイエス・キリストは弟子たちを教えて、こうおっしゃいました。
「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」(ルカ18:16)
小さな子供を神の国の祝福と恵みの対象として受け入れること、このことをイエス・キリストは願っていらっしゃるのです。キリストの十字架の苦しみは、この最も小さな者をもその罪から救うためでした。イエス・キリストにとっては「最も小さい者こそ、最も偉い者である」からです。
従って最も小さい者たちを受け入れることは、そのもっとも小さな者のために命を献げるキリストを受け入れることに繋がるのです。
残念なことに、誰が一番偉いのかという弟子たちの議論は、最後の晩餐の席上でも繰り返されました(ルカ22:24)。結局のところ、弟子たちはイエス・キリストの十字架の苦しみを目の当たりにし、その苦しみの意味を悟るまで、イエス・キリストがおっしゃる「最も偉い者」の意味を理解することはできなかったのでしょう。
後に使徒パウロはコリントの教会で起った争いを解決するために、こんな言葉を手紙に書いて送りました。
「その弱い兄弟のためにもキリストは死んでくださったのです。」(1コリント8:11)
立派な信仰だと自分を思って他人を見下している人がいるならば、弱い信仰の兄弟のためにもキリストが命を献げられたことを認める謙虚さが必要なのです。
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