聖書を開こう 2009年5月14日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 聞いて行うように聞く(ルカ8:16-21)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「きく」と一口で言っても、「きく」にはいろいろな意味がこめられています。ぼんやりと音が耳に入ってくるのも「きく」といいます。逆に注意深く耳を傾けて聴くのも同じように「きく」といいます。漢字で書けば、門構えに「耳」と書く「聞く」と、事情聴取の「聴」という字を書く「聴く」とで、意味の使い分けがあるのかもしれません。
 あるいは、聞き方ということで言えば、上の空で聞くこともあれば、揚げ足を取るような聞き方もあります。もちろん、語られたことを身につけようとして、具体的な場面を思い浮かべながら聞くということもあります。
 きょう取り上げる箇所は、聞き方についてのキリストのお言葉です。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 8章16節〜21節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。」
 さて、イエスのところに母と兄弟たちが来たが、群衆のために近づくことができなかった。そこでイエスに、「母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます」との知らせがあった。するとイエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とお答えになった。

 きょう取り上げた箇所は、二つの部分から成り立っています。前半はいくつかの格言のような言葉でお語りになるイエス・キリストの教えです。そして、後半はイエスのもとにやってきたイエスの家族の話です。この二つはまったく別々な話しですが、ルカによる福音書の文脈の中では、先週の話も含めて一つの関連性が与えられています。それは「神の言葉を聞くこと」についての注意です。

 先週学んだ「種を蒔く人のたとえ」の解説の中で、イエス・キリストは、蒔かれた種が良い土地に落ちてたくさんの実りをもたらしたことを指して「立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」と説明されました。
 きょう取り上げた箇所の前半では、いくつかの格言を並べてから、「どう聞くべきかに注意しなさい」とおっしゃって、神の言葉の聞き方に注意を促しています。
 同じようにイエスの家族が訪ねてきた場面では、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とおっしゃって、ご自分の本当の家族を、血縁ではなく神の言葉の聞き方と関連付けています。

 ですから、先週学んだ個所を含めて三つの話を通して、ルカによる福音書は、神の言葉の聞き方についてわたしたちに注意を促しているのです。

 さて、16節と17節には二つの格言のような言葉が記されています。

 「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。」
 「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。」

 この二つの言葉は、それ自体では直接に関連性があるわけではありません。最初の言葉は「ともし火は隠すためではなく、光で部屋を照らすためにある」という真理を語ったもので、それ自体ではいろいろな場合にその真理を適用することができます。「宝の持ち腐れ」を戒め、「無用の長物」とならないようにとの警告の言葉としても受け取れます。

 もう一つの言葉はそれ自体としては「秘密は隠しとおすことはできない」という真理を言い表していて、その前に述べられた言葉と直接のつながりが特にあるわけではありません。

 しかし、イエス・キリストはこの二つの言葉を並べた後で、「だから、どう聞くべきかに注意しなさい」とおっしゃって、この二つの言葉が、神の言葉の聞き方についての注意であることをお示しになっています。しかも、聞き方次第では、持っていたと思われるものまで失ってしまうほど、聞き方は大切なのです。

 その聞き方とは、一つには、ともし火をともし火として使うことができるような聞き方です。せっかく聞いた神のみ言葉を、覆い隠したり、自分の内側だけにしまいこんでしまうような聞き方ではいけないのです。神のみ言葉を聞くとは、先週のたとえ話の中に出てきたように「御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ」ことなのです。生活から遊離したみ言葉の聞き方というのは、ほんとうはみ言葉を聞いているとはいえないのです。

 もう一つの言葉、「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない」とは、神の言葉は隠すことができないのだから、それが広まるように聞け、と言う意味にも取れなくはありません。
 しかし、「隠れているもの」「秘められたもの」とは他ならない自分の内面であると理解すれば、隠したつもりの内面はやがては白日のもとに晒されるという警告です。表面を取り繕うことはできても、それは長くは続かないのです。そうであればこそ、隠れた自分の心があらわになってもよいような神の言葉の聞き方を、イエス・キリストは求めていらっしゃるのです。

 これらの言葉を記した後で、ルカによる福音書は、イエスの母と兄弟がイエスのもとにやって来た話を記しています。このエピソードは他の福音書にも記されていますが、ルカが伝えるエピソードは他の福音書のような詳しい状況描写が一切省かれています。
 ただ、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とお答えになったイエス・キリストのお言葉でこのエピソードが印象的に結ばれています。

 イエス・キリストの家族となるということは、血のつながりから言えば、訪ねてきた母や兄弟以外の誰にもなることはできません。しかし、み言葉を聞いて行うように努めることは、イエス・キリストと血のつながりのない人でもできることなのです。
 もちろん、神のみ言葉を生活の中で実践することは簡単ではありません。しかし、最初から実践するつもりがなくて聞くのと、行なおうとして注意深く聞くのとではまったく違うのです。
 イエス・キリストは御言葉の実践を心がけて、耳を傾けることを期待していらっしゃるのです。そして、その人をこそご自分の家族として迎え入れてくださるのです、いえ、イエス・キリストこそ私たちの家族として、神のみ言葉に徹底して生きたお方なのです。

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