聖書を開こう 2009年1月22日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 新しい時代の到来(ルカ5:33-39)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 キリスト教会では一冊の聖書を二つに区分して、旧約聖書と新約聖書と呼んでいます。キリストが到来する前の時代までのことを記したものを旧約聖書、キリスト到来以降のことを記したものを新約聖書と呼んでいます。
 旧約というのは古い契約と言う意味です。それに対して新約とは新しい契約と言う意味です。では、一体誰が古いとか新しいとかの区別を言い出したのでしょうか。
 実は新しい契約という言葉は既にイエス・キリスト以前に記された預言の言葉に出てきます。

 「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。」と預言者エレミヤは言います(31:31)

 ですから新しい契約が結ばれる時が来ることは、旧約聖書の中にすでに記されていたことなのです。

 イエス・キリストご自身もまた、弟子たちと過ごした最後の食事の席でぶどう酒の杯をとってこうおっしゃいました。

 「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」(ルカ22:20)

 つまり、約束されてきた新しい契約の時がまさにイエス・キリストを通して実現したのです。

 しかし、この新しい時代の到来は、その時代に生きた人々にとっては、最初から明らかであったわけではありません。多くの戸惑いがあったのです。
 きょう取り上げようとしている箇所は、まさにそうした戸惑いに答えるイエス・キリストのお言葉です。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 5章33節〜39節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 人々はイエスに言った。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。」そこで、イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる。」そして、イエスはたとえを話された。「だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」

 きょうの箇所はイエスの弟子たちの行動が当時の人々にとって不可解に映ったということから始まります。
 人々はイエスに尋ねます。

 「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。」

 食べたり飲んだりするのは人間ですから、誰でもすることでしょう。しかし、そんなことが話題になるほど、イエスの弟子たちは他の人々の目には飲んだり食べたりが優先しているように見えたのでしょう。断食や祈りの姿がイエスの弟子たちの姿を印象付けるのではなく、食べたり飲んだりする姿がイエスの弟子を特徴付けると言うのです。そういわれてしまうと、何だかとても不名誉なことのように感じられます。
 確かにファリサイ派の人々は週に二度断食したと言われます(ルカ18:12)。ヨハネの弟子たちも同じように断食をしていたのでしょう。モーセの律法が断食を求めているのは年に一度、贖罪の日だけでした。民数記29章7節に規定されているとおり、第七の月の十日、苦行をしてどんな仕事もしないことが求められています。この苦行が唯一律法が求めている断食だと考えられているのです。
 しかし、任意の断食は様々なときに行なわれました。罪を悔い改めるとき、様々な悲しみや苦難の中にあるとき、人々は断食して祈りました。
 そもそも、断食とは定期的に行うものというよりは、様々な機会に自発的に自然に行うものです。

 イエス・キリストは人々の批判に答えてこうおっしゃいました。

 「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。」

 これはイエスを花婿にたとえ、今の時を婚礼の時とした譬えです。つまり、喜びの婚礼の祝宴では断食したりしないのと同じように、今のときはイエスと共にいる喜びの時なので、断食をしないのは当然だということです。

 ここでは、今がどういう時代なのか、というイエス・キリストの時代の捉え方が明らかにされています。それはイエスのお考えと言うばかりではなく、断食をしない弟子たちの感覚でもあるのです。彼らはイエスに強いられて、断食をしないわけではないのです。今という時がイエスと共にいる喜びの時だからこそ、断食はふさわしくないと考えているのです。

 けれども、イエス・キリストは言葉をついで、こうもおっしゃいました。

 「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる。」

 イエス・キリストは断食そのものを否定されたのではありません。断食をすることが必要な時が来ることも告げていらっしゃるのです。それは「花婿が奪い取られる時」だとおっしゃるのです。

 では、いったいいつ、花婿が奪い去られるのでしょうか。イエス・キリストはその答えを語っていません。それはイエスの十字架と死を指してそう言っているのかもしれません。あるいは、イエスの再臨の日までのことを語っているのかもしれません。答えはどちらかでなければならないと言うことではないでしょう。イエス・キリストが遠ざかったと感じるときに、悲しみを覚え、そのつど断食することが大切なのです。

 イエス・キリストは人々とのやり取りを通して、ただ断食について教えようとされたのではありません。そうではなく、イエスとともに新しい時代がはじまったことを告げているのです。断食に対する捉え方もその一つの表れに過ぎません。
 週に何回断食するという形式から律法を行うのではなく、イエス・キリストと共に歩む中から律法の求めに応じる生き方が生まれるのです。
 イエス・キリストはこの新しい生き方にわたしたちを招いておられるのです。

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