聖書を開こう 2009年1月8日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 罪を赦す権威を持ったイエス(ルカ5:17-26)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 人間というのはいつも自分のフィルターを通してしか物事を理解しないものだと思います。多かれ少なかれ、自分のフィルターによって物事を曲げて理解しがちです。特に歴史を描くときなどには、それが顕著に表れてきます。ほんの60年程前に起きた戦争についての歴史でさえ、それを記述する歴史家によって、内容が百八十度も違ってくるのです。
 きょう取り上げる聖書の箇所には、同じ出来事でありながらまったく正反対の反応を示す人々が登場します。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 5章17節〜26節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた。すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた。「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」イエスは、彼らの考えを知って、お答えになった。「何を心の中で考えているのか。『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた。その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れに打たれて、「今日、驚くべきことを見た」と言った。

 きょうの話に登場するのはファリサイ派の人々と律法の教師たちです。この人たちはルカによる福音書によれば、「ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来た」人々です。話を読み進めるうちに分かるとおり、これらの人々は決してイエス・キリストの活動を手放しで喜ぶ人たちではありませんでした。むしろイエスの活動を調査し、機会を捉えて批判しようとしていた人たちです。しかも、一地方都市の人ばかりではなく、わざわざ中央からもやってきていたのです。そのことは逆に言えば、もはやイエスの活動を黙認することはできないほどに、イエスの評判が中央にまで届いていたことをうかがわせます。

 もちろん、イエス・キリストご自身の働きにとって関心があるのは、教えに耳を傾ける人々であり、イエスを頼って救いを求める人々です。そして、イエスの周りに集まった人々の大半は、そのようにイエスの教えに聞き入る人たちであり、イエスを頼ってやってくる人たちです。そういう意味では、その場に居合わせたファリサイ派の人々や律法学者たちは、最初から向かう関心の違った人たちであったということができると思います。
 きょう取り上げる話の結びには、人々が神を讃美する言葉が記されています。しかし、ファリサイ派の人々と律法学者が見たものは、イエスを通して働く神の驚くべき御業ではなく、イエスの冒涜的な働きでしかなかったのです。関心の違いによって、見えるべきものが見えなくなり、感じ取れるべきものが感じ取れなくなっているのです。

 さて、こうして大勢の人たちが集うイエスのもとに、一人の男が四人の友人に運ばれてやって来ました。その一文からだけでも、出来事の背後にあるこの人たちの友情の物語をいろいろと想像することができるでしょう。病気の本人が友人たちに頼み込んだのでしょうか。あるいは、動けない友人のもどかしさを感じて、友人たちから声をかけたのでしょうか。どちらにしても、病を患う友人への関心がなければ、イエスのもとまで来ることはできなかったでしょう。

 ところが、せっかく友人を運んできたのに、大勢の群衆たちに阻まれて、イエスのもとへと近づくことができません。運んできた男たちは躊躇することもなく、「屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした」のです。

 イエス・キリストはそこまでするこの一団に「信仰」を見てとったのです。これは運ばれる人も運ぶ人も五人が一致した思いでなければ、実現できることではなかったからです。一人が「あきらめよう」と言い出したら、みんなの思いが挫かれたことでしょう。しかし、一人としてそれを言い出す者がいなかったのです。この人たちの行動は一致した信じる心に貫かれていたのです。

 イエス・キリストはその信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」とおっしゃられたのです。

 この罪の赦しの宣言は、決して立派な信仰のご褒美として与えられたと考えるべきではないでしょう。そうではなく、これらの人々には罪の赦しを受け取るだけの信仰が与えられていたと言うことなのです。
 当たり前のことですが、誰しも信仰がなければ、イエス・キリストが与える罪の赦しを受け取ることができません。信じない人に、罪が赦されたと言って、何の意味があるのでしょうか。
 それは、そこに居合わせたファリサイ派や律法学者の反応を見れば明らかです。彼らにはイエス・キリストに対する信頼も信仰も、かけらほどもありませんでした。そもそも、彼らがその場にいたのは、イエス・キリストからよいものを得ようとしてではなかったのです。よいものどころか、冒涜を訴える口実を得たかっただけなのです。ですから、彼らが聞いたものは罪の赦しの言葉ではなく、ただの冒涜的な言葉だったのです。

 そもそも、裁く権威をもったお方は神お一人しかおられません。その意味では「ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」という律法学者たちのつぶやきは正しいのかもしれません。中風の人もまたその人を運んできた男たちも、まさかイエスの口から罪の赦しの宣言を聞くとは夢にも思っていなかったでしょう。

 しかし、イエス・キリストはこの地上で先取りして罪の赦しを与える権威をもっておられるお方なのです。それは信仰でもって初めて受け取ることができる恵みなのです。

 わたしたちはどんなに立派な人でも自分の救いには不安が伴うものです。最後の審判の時にはそれが明らかにされるのです。しかし、イエス・キリストだけが、それに先立って、わたしたちにとって有利な判決を聞かせてくださるお方なのです。そしてそれは信じる者だけが聞くことのできる恵みなのです。

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