おはようございます。南与力町教会の山村貴司です。
今日のお話は、二つの家の譬えです。イエス様はマタイ福音書の7章を見ると、一方の家は良い家であったと評価していますが、もう一方の家は悪い家であったと非難しています。
評価している家、それは聖書によると「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった」家であり、非難されている家、それは「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲ったとき、倒れてしまった」家だといわれています。
どうして一方は倒れ、もう一方は倒れなかったのでしょうか?これを知るために、この二つの家の違いを検証してみたいと思います。
聖書には、まずこの二つの家の共通しているところが記されています。
共通しているところは第一に、「建物」自体です。聖書によると、この二つの家は、一方が壊れ易く、一方が壊れにくいというような建物の違いは見当りません。二つの家は、建物自体は同じでした。
第二に、両方の家に起こった「出来事」、これも共通しています。聖書によると、両方の家には、同じように「雨が降り、川があふれ、風が吹いて」その家に打ち付けています。ですから家を襲った災害にも違いはなかったのです。
ところが、聖書によると一方の家は跡形もなく倒れ、もう一方の家は倒れなかったというのです。一体どうしてでしょうか?聖書によると、それは家の土台が違うからだと言うのです。聖書によると、一方の家の土台は砂だったと言っています。そしてもう一方の家の土台は岩だったと言っています。つまり、前者は壊れやすい土台の上に建てられていたために倒れてしまった、後者は壊れにくい土台の上に建てられていたために倒れなかったと、こう言っているのです。
このお話は譬え話です。ここに出てくる家や雨風、砂や岩は、一体何を指しているのでしょうか?
家とは、それは私たちの「人生」や生活を指しているといえるでしょう。雨や風、それは、そんな私たちを襲ってくる様々な「試練や困難」、あるいは辛いことや悲しいことなどを指していると言えるでしょう。
ではそんな時、これを土台としていたら倒れてしまう砂と言うのは、一体何を指しているのでしょうか。それは第一に、「物理的なものやお金」のようなものでしょう。それらは有限で、必ずなくなってしまうものだからです。第二に、この砂とは「私たち人間」と言うこともできるのではないでしょうか。私たち人間は弱く、その力にも限りがあるからです。ですから厳しい試練や辛い困難が襲ってきた時に、私たちはいつでもその人生を支えることができるとは限らないのです。
では、いつでもどんな時でも私たちの人生を支えることが出来る強固な「岩」とは、一体何でしょうか?それが神様です。聖書の神様は、強固な岩のようなお方で、いつでもどんな時でも私たちをしっかり支えてくださるお方だ、そのように記されています。
どうして神様は、いつでもどんな時でも私たちを支えることができるのでしょう?それはこの世のものやお金はやがてなくなってしまうものですが、聖書によると、神様は永久になくならないお方であり、そのように記されているからです。また、私たち自身は限りなく弱く、力がない者ですが、神様は限りなく強く、力に満ち溢れたお方だと記されています。
このように、私たちはその人生をどんな時でも支えることはできませんけれども、神様は私たちの人生を、いつでもどんな時でも支えることがおできになられるのです。
この神様の上に人生を建てる人は、本当に幸いな人だと思います。