おはようございます。高知教会の久保薫です。
こどもさんびかの119番に「やさしい目が」と云う歌が有ります。娘が小さかった頃に好きだった歌です。一番の歌詞を紹介します。
「やさしい目が きよらかな目が きょうもわたしを見ていてくださる。 『まっすぐにあるきなさい』と見ていてくださる。」
曲もゆったりとしていて、とても安らかな気持ちにされる歌だと思います。神様のやさしい目がいつも見ていてくださるのだから、安心していきなさい、という歌です。もう滅多に歌うこともなくなりましたが、それでも時々思い出すと懐かしくなります。
イエス・キリストはあるとき、おっしゃいました。「はっきりいっておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」(マタイ18:3)また、「子供達を私のところに来させなさい、神の国はこのようなもの達のものである。」(マルコ10:14)とも言われました。
イエス・キリストを信じたときから、わたしの罪はゆるされ、永遠の命が約束されたのですから、もう思い煩う必要などないはずです。感謝と喜びの人生が待っているはずだったのに、実際は人生には悩みが尽きません。一つ解決したと思ったらまた次の悩みが思いがけない形で出てきたりするのです。なぜでしょうか。それは、この地上で生きている間は、許されているとしても、わたしにはまだ罪がたくさん残っているから、そして、私の生きているこの世の中全て、私と同じく罪と悪がいっぱいの世界だからです。それは、はるか昔の旧約聖書の時代から今に至るまで、変わらない事実です。
旧約聖書の中に、「詩編」という書物があります。昔の信仰者の祈りの歌を集めたものです。「つらいときには、詩編を読むといい、それも嘆きの詩編を。」と教えられた事があります。そこには、たとえば「わたしを陥れようとするものがいます。彼らの口は正しいことを語らず、舌は滑らかで のどは開いた墓、腹は滅びの淵、…」(詩5:9−10)という心からの訴えや、「主よ、わたしを苦しめるものはどこまで増えるのでしょうか」(詩3:2)あるいは、「わたしは嘆き疲れました。夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うほどです」(詩6:7)という嘆きの言葉があります。それらを読む時、そうだ、今に始まったことではない、旧約の昔から、人生には苦しみがあり、涙の日々があったのだ、という事に慰められます。また、祈る言葉も浮かばず、祈れなくなってしまったときに、今の自分の気持ちそのままの祈りにであって、それをそのまま自分の祈りとして祈ることができたりします。そしてその先を読み進むと、「主は私の嘆きを聞き、主は私の祈りを受け入れてくださる」(詩6:10)という信仰の光が見えてくるのです。
「大丈夫、心配はいらない、きっと神様は いいようにしてくださる」。これは、何人もの信仰の先輩方が決まって口にされる言葉です。単純で、しかし力強い確信に満ちた言葉です。「大丈夫、きっと神様は、良くしてくださる」。この言葉を自分のものとして心から口にできる時、心はもう安らかになっています。子供のような信仰とは、このようなものではないでしょうか。ついあれこれと、思い煩いの海におぼれてしまいそうな時、神様の「やさしい目」と、この「大丈夫」を思い出したいと思います。