おはようございます。山下正雄です。
昨年の秋に突然襲った世界同時金融危機のことを「百年に一度の危機だ」と世の中では言っています。経済に疎いわたしには、どうしてそれが百年に一回だと断言できるのか、素朴に疑問に思います。むしろ人間が経済的な繁栄を追及する世界では、百年以内にまた同じ過ちを繰り返しそうな気がしてなりません。
聖書の中には金銭に対する注意の言葉がたくさん出てきます。たとえば、テモテへの手紙一の6章9節以下にはこう記されています。
「金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲は、すべての悪の根です。」
この言葉はあまりにもストレートな表現なので、あえて取り上げる機会が少ない言葉かもしれません。あるいは注意深くこの言葉を取り扱わないと、人間の経済活動そのものを停滞させてしまうという懸念から、この言葉を取り上げることに消極的になっているのかもしれません。
確かにお金の大切さは誰もが知っていることです。お金で苦労をしたという話はよく耳にする話です。そうであればこそ、ただ金銭や富を否定した話と受け取られることを恐れて、あまりこういう言葉をあえて取り上げようとしないのかもしれません。わたし自身もこの聖書の言葉を取り上げながら、この時期にこの言葉を取り上げることに短絡的な誤解を与えるのではないかと恐れています。
しかし、お金の大切さは誰も教えなくても身に染み付くものですが、金銭欲がもたらす害悪は、あえて指摘されないと意識しないものです。というのも、お金が大切だと言う思いが、金銭欲が正しいものなのか悪いものなのかの判断を鈍らせてしまうからです。
お金の大切さは、目的があってのことです。目的をかなえるための手段として、お金の大切さが身にしみるのです。何の目的もないのにお金を大切に思うことはないはずです。もちろん、お金によって達成しようとしている目的自体が間違っているということはあるかもしれませんが、それは目的が間違っているのであって、そこで使われるお金それ自体が悪だという訳ではありません。
しかし、金銭欲というのは、お金自体を目的にするという点で、それ以外の積極的な目的をもたないのです。あえて言えばお金持ちになるという意味のない目的のためにお金を欲しがることです。いえ、欲しいと言うだけのことではなく、お金を得るという目的のために手段や方法に無頓着になることです。聖書はこの「金銭の欲」に注意するようにと戒めているのです。お金は大切だという思いが、いつしか金銭欲に摩り替わって、金銭欲を持つことに何の疑問ももたなくなるのです。いえ、そこまで金銭欲におぼれていないと誰もが自分を過信しているのです。
しかし、聖書はそこに潜む「誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望」にわたしたちの注意を向けています。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れるとさえ警告しているのです。
お金で動く経済体制の中に生きているわたしたちの時代であればこそ、その危険にいっそう深い注意を払う必要を感じます。お金を正しく管理できないときに、金銭の欲が、すべての悪の根源となるのではないでしょうか。